「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 『ジョ-ジとドラゴン』の伝説と、正義感の自己中心性。 


今回は、西方の英雄伝説とその絵画ですが、まずはジョークからどーぞ。

 18世紀のイギリス。
 疲れて腹をすかせた旅人が『ジョ-ジとドラゴン』の看板のある旅籠にたどりついた。
 ドアをノックすると旅館の持ち主の妻が窓から顔を出した。
「食べ物をくれませんか?」
 女は男の粗末で薄汚れた服装を見て、「ダメ」と叫んだ。
「では、ビール一杯だけでも」
「ダメ!」
「じゃあ、せめてトイレでも」
「ダメよ」
「ええと・・・・」
「ダメよ。今度は何よ?」

「あのう、ジョージの方と話させてもらえませんか?」

        kikwc.jpg
          ※看板とは無関係の参考画像です。

 (海外のジョークと訳文も面白い『夏への扉』の「ドラゴン」2015/07/06より)


ジョージ(George)とは聖ゲオルギオスの英語名で、イングランドなどの守護聖人。
邪悪なドラゴン(竜)を退治して人々を救った話は、西方では有名な英雄伝説です。


この旅人は、その守護聖人の名を出したのですが、ご加護にはあずかれずでした。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
絵画に多く描かれた『ゲオルギオス(ジョ-ジ)とドラゴン』の伝説。
ゲオルギオスが殉教死した4月23日(正教圏では5月6日)は、キリスト教の聖名祝
日で、15世紀から18世紀終わりまではクリスマスに比肩する祝日だったそうです。


 以下の絵はすべて『聖ゲオルギオスとドラゴン』を描いたものです。
 aeUBAR.jpg
 パオロ・ウッチェロ (1456頃)



《伝説のあらすじ》
ゲオルギオスは3世紀後半のローマ帝国の兵士。出身は現トルコのカッパドキア
だったが、その首府付近に、人に害をするドラゴンがいた。人々は毎日、2匹の
羊を捧げていたが、羊を出し尽くしたので、人間をいけにえに出すことになった。

くじ引きで王の娘が当たった。そこに通りかかったゲオルギオスが槍でドラゴン
に刺して倒し、姫の帯で町まで引っ張ってきて、人々に「お前たちがキリスト教
徒になれば、このドラゴンを殺そう」と言ったら、異教徒の住民がみな改宗した。



 edwaqd.jpg
 エドワード・バーン=ジョーンズ (1866)


後にゲオルギオス自身は、キリスト教徒を嫌う異教徒の王に拷問されて改宗を迫
られるが、断ったために斬首され、殉教者としてヒーロー的な守護聖人となった。

彼は、他者には改宗を迫ったが、自分が改宗させられるのは死より嫌だったのだ。



    sante60.jpg
    ラファエロ・サンティ(1505-1506)

      ________________________


さて、人が命より大事にしているものは、なんでしょう?

愛ですか、名誉ですか、忠誠ですか、それとも子供、配偶者、親ですか?
走れメロスさんは、友情か責任感か、身勝手な自己陶酔のようでしたが。

まあ、いろいろあるでしょうが、一番は正義感ではないですか。
正義のためには、喜んで命を捨てる人がいますから。


     lgp09.jpg
     ピーテル・パウル・ルーベンス (1606 - 1610)


ゲオルギオスは宗教的な正義感ゆえに殉教の死を遂げ、聖人とされましたが、
信じてない神を押し付けられた町民たちは、彼を聖人と思ったでしょうか。

ドラゴンの脅威から救われたときは、大喜びした人もいたでしょうが、
自分の信仰を棄てるのは死よりつらい、と悩み苦しんだ人もいたはずです。


     Stgeorge-dragon.jpg
     ギュスターヴ・モロー (1889)


人生の道で出遭うドラゴンは、自分で解くべき課題と思うほうがいいでしょう。
逃げよう避けようとしていると、実地試験放棄、採点ゼロとなり、情けないだけ。
でも頑張って立ち向かえば、自分の人間性の幅は確実に拡げられます。

絵の中のドラゴンは意外に小さくて、自分でも勝てそうだと思わなかったですか。
もう耐えられないと思えても、大丈夫。逃れ道が必ずあるとは聖書の保証です。

難題はしっかり体験して、クリアーすることです。
そうすれば、自分で自分の人生劇のヒーローになれるでしょうね。

            giieor5.jpg

リーさんも『燃えよドラゴン!(笑)』とか言ってますし。(←空白部をドラッグ)



●伝説の竜(ドラゴン)は西洋では悪的怪獣扱いされ、龍は東洋では神的霊獣扱いされています。

※新約聖書コリント第一10:13 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

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命より大事なもの

バーソ様
おはよう御座います。

命より大事なものはやはり家族の命では
ないでしょうか?
親のために命は捧げられませんが子供の
ためなら捨てられますよね?
(といっても子供がいませんので多分)
武士が切腹するのは名誉のため、忠義の
ためとか言いますが本当は家族まで罪が
及ぶのを防ぐためだったと思います。
普通の日本人なら信仰のためというのは
無いでしょうね。
では自殺はどうか?単に苦しみから逃れる
だけですから問題外ですね。
それにしても西洋のドラゴンはセコイですね。
清王朝のドラゴンを見よ!と言いたいです。

愛新覚羅

2017/06/17(土) |URL|aishinkakura [edit]

信じるか否か

( ̄~ ̄;) ウーン命より大事なもの……。

生贄の時代もバカらしいし、ジョージには悪いですが、
宗教的な正義感のためというのは、もっとバカらしいような……。
(信仰心はありますが宗教は否定するタイプです)

う~む、今の世で正義のために命かけてたら、
命がいくつあっても足りないし……。
と、なると、最優先は、
未来のある子供の命が助かるなら、です。
命より大切なものは、やっぱ、命でしよう。

人生で出遭うドラゴンですかぁ。
これは誰もが『自分で自分の人生劇のヒーロー』になるしかないですね。
(・_・?)……こう表現すると不思議に、人生はゲームですね。

う~む、確かに、愛新覚羅さんがおっしゃるように、
西洋のドラゴンって、意外にお粗末ですね。
発育不足の小型恐竜みたいで笑えます。
こんなドラゴンなら、ジョージでなくても、
屈強な村人数人で倒せるかも。((´∀`*))ヶラヶラ  

2017/06/17(土) |URL|風子 [edit]

Re: 命より大事なもの

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
> 命より大事なものはやはり家族の命では
ないでしょうか?

 確かに。そういう話をよく聞きますね。火事場に残されて子供を救うために家に飛び込んで焼け死んだ母親とか、海で溺れている家族を助けに行って自分が溺れしまったとか。武士の切腹もお家存続のためかもしれません。天草地方では信仰のために死んだ大名や百姓がいましたが、今の日本では、おっしゃるように、そういう人はほとんどいないでしょうね。いたら聖人か、カルトの狂人扱いされます。

 でも人間は多様ですね。昔の男は君主や天皇陛下のために死ぬのを男子の本懐と考えていました。三島由紀夫の『憂国』の主人公は自分の名誉のために妻も共に自害することを当然としました。社会党の浅沼書記長を殺した犯人は18歳の少年でしたが、牢屋ですぐ自害しました。自爆テロを起こす人は依然として居なくなりません。大体が昭和のサラリーマンは、家族よりも会社第一で死に物狂いに働くのが当然でした。男の育休なんて話はごく最近ですね。私も以前は、自分の宗教の神を第一とする人生で、自分のことや家族のことは二の次でした。
 
 そういうことを考えると、二つ理由があるかもしれないですね。
 一つは愛という《感情》に突き動かされてそうする。これは肉親愛や同胞愛で、人間の生来的かつ本能的なものかもしれません。
 もう一つは正義感という《理性》に従ってそうする。これは自分が学んできた倫理観とか宗教観によるもので、名誉とか忠義心とか、広い意味では人類愛も含まれそうです。
 感情と理性とどちらが強いかで、生き方はかなり変わりそうですね。

> それにしても西洋のドラゴンはセコイですね。
清王朝のドラゴンを見よ!と言いたいです。

 はい、確かに。大型トカゲのイメージから抜けていません。中世の西洋人の画家は写実的に描くのが習慣になっているせいでしょうか。

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 信じるか否か

風子さん コメントありがとうございます^^)
> 宗教的な正義感のためというのは、もっとバカらしいような……。
(信仰心はありますが宗教は否定するタイプです)

 まあ、そう思うのも無理はないと思います。いまの大きな宗教組織で完璧に立派で正しいことを教え、かつそれを完璧に実行している教団はないでしょうから。

 ただ世界では偉人と認知されているイエスが、自分から当局に捕まって刑柱に架けられたのは、教理的にいえば「贖い」といって、人類の罪を自分の命と引き換えに救うためであったとされています。
 これは、愛という《感情》でそうしたとも考えられますし、そうすべきだという《理性》に突き動かされて行動した偉人だとも言えます。

 だからイエスに信仰を持つ者が多いのですが、しかしながらイエスの行為が実際に世界から罪と悪を壊滅させたのかと言えば、個人的には救われた気持ちになった人は大勢いるでしょうが、根本的には世界は全然変わってはいません。人類の罪と死は相変わらず存続し、悪化している地域もあります。

> 未来のある子供の命が助かるなら、です。
命より大切なものは、やっぱ、命でしよう。

 そう思う精神は、愛か正義感か、その両方ではないでしょうか。いやそうじゃないと思う人が世界に戦争を起こして金儲けをしようとするのでしょう。911の真相も怪しいと思われるのはそのせいです。

> 西洋のドラゴンって、意外にお粗末ですね。
 これって、噂に聞いていた時は凄い巨大なドラゴンだったが、いざ実際に目で見たら小さかった、人生の難問もこんなものだという比喩ではないでしょうか。英雄とはそれを見破った人のようにも思えます。

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

私の中のドラゴン

こんにちは、まだ会社に居残っております。

如何せ、死んで花実が咲くものか的思考の持ち主で、はたまたオレオレ的な自己中じじいですので命より大切なものなんてございません。

でも愛する妻や子供のためにとなれば、それは躊躇なく我が身を捧げるでしょう、これはもう正義だとか責任だとかいうよりも、動物の本能に近いもので、なんの考えもありません。

そんな究極の選択は別として、おいらの中のドラゴン、ドンキホーテーなおいらが日々格闘しているドラゴン、それは仏教的にいえば、色欲、愛欲、性欲、金銭欲、食欲の五欲、キリスト教的に言えば「人から出るもの、これが人を汚す的な罪」、けしてウンコの話じゃなく・・

この欲と罪がおいらの中のドラゴン、戦績は今のところ三勝五敗二分け、まだまだ仙人への道はほど遠く言う所です。


>難題はしっかり体験して、クリアーすることです。
そうすれば、自分で自分の人生劇のヒーローになれるでしょうね。

それもいいんですが、他人の人生劇の中で、生涯脇役な自分と言うのも又おつなもんではないかと・・・

2017/06/17(土) |URL|ばく [edit]

こんにちは

ジョークの紹介ありがとうございます。
「ジョージとドラゴン」そんな宗教的挿話があったとは知らずに
訳しました。宗教的ジョークって日本人にはなじみにくいですが
このジョークは何とか笑えましたので。
ドラゴンて小さくてコモドラゴンに毛が生えた程度ですね。
そうか戦えばひょっとしたら勝てそうなぐらいの試練ということですね。

>新約聖書コリント第一10:13 「あなたがたを襲った試練で・・・」

そういえば今まで確かに耐えられないような試練って少なかったような気がします。
神のおかげか、ただ単に私が鈍感だっただけか。
でもまだ鎮痛性麻薬が使われていない時代に、親戚のおじさんがガンの痛みに
苦しむ姿はトラウマになっています。私がまだ小さかったせいもありますが。

「人間臨終図鑑Ⅱ」が先に届いて読んでいます。
Ⅱには泣かせるエピソードはあまりないですが、様々な生きざま死にざまが
あって勉強になり、立派に死んでみせると思えるようになりました。(笑)

2017/06/17(土) |URL|エリアンダー [edit]

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このコメントは管理人のみ閲覧できます

2017/06/17(土) || [edit]

西洋では災いを齎す悪の象徴、東洋では天の使いである聖獣。
竜の解釈が西と東で違うのは、根底にある文明の思想が異なるからでしょうか?
西洋人にとっては自然など人の進出を妨害するものは害悪であり、征服すべき対象になります。
片や、東洋では自然は畏怖して崇めるべき対象であり、例え害を為す事があっても恵みを垂れてくれる存在。
その辺の考え方の根本的な違いが、西と東の竜伝説に現れているのだろうと思えます。

2017/06/17(土) |URL|sado jo [edit]

Re: 私の中のドラゴン

ばくさん コメントありがとうございます^^)
 命より大切なものはないが、それより妻や子供のほうが大切ですか。
 子供より妻が先という順番は、ばくさんらしいですね。そう思っていても、はっきりとそう言う人はそんなにはいないと思いますね。

 と、ばくさんは妻想いのことを言いながら、欲は色欲、愛欲、性欲、金銭欲、食欲の5つで、今のところは三勝五敗二分け。10回チャンスがあって5回負けている。あはは、まあ、なんと言ったらいいやら。
 金銭欲と食欲の2つはもう十分以上堪能しているでしょうから、やっぱりあっちのほうですか。でも格闘しているというのは、いいような、悪いような、まあ、生きている間は好きにしてください。(笑)

> それもいいんですが、他人の人生劇の中で、生涯脇役な自分と言うのも又おつなもんではないかと・・・
 おお、そうですか。ちょっと意外に思いました。でも、ばくさんらしい気もします。じつは、これは私もそうですね。私は人前で目立つことよりも、縁の下の力持ちのほうが好きです。黙って陰ながらひとの役に立つ役割のほうが好きで、人生ではなるべくそうしてきたつもりです。 
 普通、映画などでは脇役と言われるでしょうが、二枚目の派手な主役より、渋い演技の脇役俳優のほうがかっこいいと思いますね。
 でも自分が人生でそうしてきたのであれば、自分劇の中では、自分は主役であり監督兼プロデューサーの役割をしてきたのじゃないですかね。^^)

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 今回もまたジョークを使わせていただき、ありがとうございました。
 最初、これをイントロに使って、話は漢字の「竜」と「龍」の違いについて書くつもりでしたが、書いているうちにこの『ジョージとドラゴン』の伝説のほうが絵がいっぱいあって、ビジュアル的に面白そうだと思えたので、途中から正義感の関連させた話に変更しました。先回は華厳の滝に飛び込む話で、ちょっと暗かったせいもあります。

 絵に出てくるドラゴンは確かにコモドドラゴンみたいです。ヨーロッパの寒い所にも棲息していたのでしょうか。私はトカゲ類よりヘビ類のほうが怖いです。エデンの園に出てくるヘビの話を知る前からそうでした。この恐怖感は、人類に共通して、潜在意識下にあるのでしょうか。

> >新約聖書コリント第一10:13 「あなたがたを襲った試練で・・・」
そういえば今まで確かに耐えられないような試練って少なかったような気がします。

 試練というのは、乗り越えられないような気がしても、何とか乗り越えられるものなんじゃないでしょうか。神が人間とその人生環境を創造したのであれば、そうでないとおかしいと有神論的には思います。
 むろん大震災や事故、病気、戦争で亡くなった人もいるわけですが、個々の障害や問題は。大抵の場合は逃れ道があるものだと思います。
 私の叔父も肺腫瘍(癌)で死にましたが、子供の頃、その苦しむ姿を見ています。今は医療・医薬が進歩していて、ありがたいことです。

 『人間臨終図鑑・下』は私も読みました。圧倒的に上巻のほうがいいですね。C.アヴリーヌ『人間最後の言葉』は図書館で用意されているようなので、今日の夕方にでも受け取りに行ってきます。いつもありがとうございます。(^^♪

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 信念とか正義感というのは、普通は立派なものとされますが、諸刃の剣で、危険性もあります。ただ食べたり飲んだりすることだけに関心がある人は別にして、知的かつ良心的に生きている「痩せたソクラテス」にとっては、他から信念を棄て去るように強制されるのは死より嫌なことだと思いますね。プロテスタントの信仰を曲げなかったゆえに火あぶりされた人、切支丹として拷問死させられた人たちの苦しみについては共感を感じます。でも迫害をするほうも正義感ゆえなんでしょうが。

 目からウロコが落ちたように突然信念が変わることはあり得ますね。聖書ではパウロがそうでした。幻で現れたイエスに会ってからは、熱心なキリスト教迫害者から、熱心なキリスト教宣教者に変わっています。
そのパウロは、こう言っています。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(ピリピ3:8)

 この「イエスを知ることの素晴らしさ」というのは、真理を知った素晴らしさということで、単なるご利益を追い求めていたのではないということですから、利己的な信仰ではないと思います。
 これには神への愛、真理への愛が関係しているでしょう。この種の愛は、死を怖れる感情とは違うレベルの、崇高な感情なんでしょう。

 ちょっと教えに矛盾を感じるが、愛で覆おうというのは人間関係においては必要で、成り立つことでしょうが、本当に大切な人生上の真理にかかわる問題では、やはりあくまでも真理を追い求める精神が重要であると思います。
 そしてそのためには他の人の意見も聞いてみる、という素直さや謙虚さもまた大事なのでしょう。人間の信念とは面白いものですね♪

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
> 竜の解釈が西と東で違うのは、根底にある文明の思想が異なるからでしょうか?
西洋人にとっては自然など人の進出を妨害するものは害悪であり、征服すべき対象になります。
片や、東洋では自然は畏怖して崇めるべき対象であり、例え害を為す事があっても恵みを垂れてくれる存在。
その辺の考え方の根本的な違いが、西と東の竜伝説に現れているのだろうと思えます。

 なるほど。神というものをどう見るか、ですね。自然そのものを神だろうと自然発生的に見るか、神話伝承で人為的に神とされているものを神と見るか。
 固定された土地に種をまいて植物を育てる民族と、大地を遊牧しながら動物を育てる民族の違いでもあるようです。

 前者は教義が宗教指導者により経典化され、神は特定の人格を持つ者としてのイメージが固定化されている。
 後者は伝承はあるものの、教義は明確なものがなく、森羅万象が八百万の神とされている。
 むろんステレオタイプ式に、こうだああだとは言い切れませんが、人の生活のスタイルは精神の構造にも大きく影響を与えているようです。結局は、人の生き方とは、人の信条の表れであるのでしょうかね。

 人が抱く何かのイメージというのは後天的かつ選択的なものですね。龍を神様扱いしている日本人は多いと思いますが、私は長く聖書を学んだせいで(今は聖書は100パーセント神の言葉ではないと思っているのですが)、龍とはすなわち悪魔サタンのことだという印象が強く、龍の絵柄の付いたラーメン丼はあまり気分が良くないですよ。(笑)

2017/06/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/06/17(土) || [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメsさん コメントありがとうございます^^)
 現在はいろいろ問題はあり、不正はあり、虚偽はあり。とにかく社会は経済第一で暮らしが回っていますが、正義感第一で命を棄てよという独善的な世界も怖ろしいですね。
 そうしたい人は他の人に迷惑を掛けない限り、勝手にそうすればいいと思いますが、とかく正義感というのは他の人に押し付けたくなったり、他の人を許せないとして裁いたりしがちです。ところが正義感というのは、人により時代により地域により異なっているのですかから、これが絶対正しいとは言い切れないのです。

 異端裁判や魔女裁判や集団リンチ、異教徒や同性愛者をなぶり殺しにした人間、戦時中に敵国の歌を歌っただけの人を取り締まった人間も、理由は真面目な正義感だったのでしょう。

 そんなことがおかしいことは誰でも分かっているのですが、今でもひとの意見を許せないとして叩く人も、同じような偏狭な正義感でしょうから、いつの時代も人間は変わりませんね。こういう人は頭が悪いか、色眼鏡の色が相当濃いのに、それを自分では気づいていないのでしょう。自己吟味ができない人は、困ったものです。

2017/06/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさん、こんにちは^^

面白いジョークでした^^

ジョージの伝説は、ジョージ一人に倒せるようなドラゴンなら、
住人が協力して、さっさと倒すのではないかと思いました。
ドラゴン自体の大きさよりも、
ドラゴンに対する恐れの大きさが問題だったのなら、
ジョージには恐れが無かったということですかね。

正義感と言うのは、
自分の利益や立場を正当化したいという気持ちから
生まれているように感じます。
なので、立場が変わると、何を正しいと感じるのかも、
変わってしまいますね。
でも、立場をかえると、同じことが言えなくなるなら、
それは間違いだろうと思います。

差別意識の無い人というのは、いないと思いますが、
差別は、自分がしているときには正当なものだと感じますが、
されているときには、もちろん不当なものだと感じます。
正義感というのも、同じようなものだと思います。

2017/06/18(日) |URL|Korva [edit]

Re: タイトルなし

Korvaさん コメントありがとうございます^^)
 ジョーク、面白かったですか。よかったです♪ 
じつは夕べ寝てから『燃えよドラゴン』はブルース・リーじゃなくて、ジャッキー・チェンだったかと気になって、もしそうだったら最後の駄洒落は削除しようと思って、朝起きてすぐ検索してみたら大丈夫でした。この映画は題名だけ知っていて、観てないのですね。

> ドラゴン自体の大きさよりも、
ドラゴンに対する恐れの大きさが問題だったのなら、
ジョージには恐れが無かったということですかね。

 はい、Korvaさんらしい分析です。そうかもしれないですね。噂というのはとかく悪いほうに大きくふくらみがちですからね。このドラゴンは毒気を出すそうで、単なる大トカゲではなく、悪霊的な怪獣だったのでしょうか。こういう話は神話にはよくあります。
 
 聖書にも、イスラエル人みんなが怖れていた身長2メートル以上もある巨人ゴリアテに、ダビデという少年が石投げ器ひとつで立ち向かって倒した話がありますが、少年がたった一人で立ち向かえた原因は、聖書の神エホバに対する信仰であったと書かれています。英雄伝説にもよくある話ですが。

> 正義感と言うのは、
自分の利益や立場を正当化したいという気持ちから
生まれているように感じます。

 そうですね。正義感とは、大抵は自分で生み出したものではなく、先人が述べたことを(時には自分なりに多少アレンジして)受け入れた倫理観だと思います。儒教の教えや聖書や仏教の経典の教えに共感するというのは、その考え方が好きだから、つまり自分もそれと似たような考えを持っていたということで、潜在意識下を探れば、それが自分の益になるという考えがあるのかもしれないですね。

> 差別意識の無い人というのは、いないと思いますが
 人種差別、男女差別、同性愛者差別、職業差別などが悪いことは今では誰でも承知しています。ところが相手のほうが偏屈で執拗で、差別や憎しみや非難をこちらにぶつけるのをやめないことがありますね。
 差別感とは自分が優越感を感じていたいことの表れでもあるしょうから、逆に言えば劣等感の表れでもあるのですが、頭の悪い人はその自分の内面のコンプレックスに気づかないのでしょう。困ったものです。

2017/06/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

退治される方はいい面の皮

「いいかドラン、ばれない様にうまくやれよ。」
「まあ、布教が大切なのはわかりますが、わざわざドラゴンに成りすまして村人を苦しめなくたって・・・」
「あの野蛮な異教徒どもに我が神の尊い教えを広める為だ。嘘も方便だと思って容赦なくやれ。なに、どうせ改宗する前の奴は悪魔も同じ、いくら死んでも良心の呵責を感じる必要はないぞ。」
「うーん、ですが。」
「お前、聖人たる私の命令が聞けないのか?」
「す、すみません。」
 ドランは用意された衣装を着込んで村に乗り込んだ。生贄に供された村一番の娘二人に向けて怪獣に仮想したオオカミをけしかける。瞬く間に血の海に染まる広場。
「おのれ、悪の竜の化身め!」
 広場の奥から馬に乗った男が飛び出した。構えた槍はドランの首へまっすぐに突き出された。唐突な、あまりにも唐突な思いもしない出来事に、悲鳴すら上げる間もなくドランは息絶えた。
 村人は人の姿を騙る竜の死に歓声をあげる。ゲスギオスは槍を天に突き上げて応えた。
「よいか、我が神の前には悪魔の竜と言えど抵抗も出来ぬ。ただ滅ぶしかないのだ。我が神の教えの正しさは明白であろう!!」
 そして異教徒の村は無事切捨教に改宗されましたとさ。

2017/06/18(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 退治される方はいい面の皮

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 いやあ、相当考えたでしょう。特にゲスギオスとか切捨教なんて言葉は、miss.keyさんの面目躍如、真骨頂が表れています。昔のイエズス会がした異教国の布教状況にぴったり合っているようです。まあ、確かに、そんな自分勝手な正義感ゆえに、異教徒に対して残酷無比なことをしてきたのでしょう。正義感とは恐ろしい一面がありますね。

 切捨教とは言い得て妙です。神とキリストを信じる者は救われるが、信じない者は永遠の滅びに遭うというのが新約聖書の基本的な教えですから(ヨハネ3:36)。キリスト教は愛の宗教と言われながらも、じつは切り捨て御免の排他的宗教でもあるのですね。悪人だって救われるのだとする寛容な教えとはだいぶ違います。

 昔の個々の宣教者たちは純真な信仰を持っていたのでしょうが、カトリック教会と西欧の強国の侵略政策にバックアップされたので、遠い異教徒の弱そうな国々にやってきて、どんどん侵略していったのでしょう。南米の小さな国なんかは都市ごと滅ぼされてしまい、かわいそうなものです。

 日本になぜキリスト教が広まらなかったのか。当時の施政者が異教を弾圧したためと、仏教の僧侶たちの反対も強かったためですが、遠藤周作『沈黙』に出てきたポルトガルの神父によると「この国はすべてのものを腐らせてしまう底なしの沼だ」そうで、国民の土着の仏教神道への信仰もかなり根強かったせいもありそうです。
 土着の信仰とは明確な論理や教義に基づくものではなく、先祖代々伝わってきた習慣的な考えで、大抵は論理外のものですから、論理外の信念のようなものを論理的な信念で突き崩すのは、やっかいなものなんですね。頭から別のものを信じきっている人や、頭から信じてない人、頭の中に関心がない人を説得するのは非常に難しいのです。

 本当は宣教とは、説得したり強制したりするものではないのですね。人が聞こうと聞くまいと、それとは別に、ただ伝えるだけのものなんです。いくら良い考えを自分は持っていると思っていても、自分は自分、ひとはひと、と思っていればいいのですが、とかく愚かな人は、いやそうじゃない、自分と違う考えを持っていることは許せない、正しい考えはぜひとも相手の頭に浸透させないといけないと思うのでしょう。その人の考えが100パーセント正しいなんてことはあり得ないのですが。

2017/06/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/06/20(火) || [edit]

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
あ、ありがとうございます。
おかげさまで安心しました。
これで1週間、いえ、それ以上枕を高くして寝られます。(^^♪


 

2017/06/20(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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