「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 芭蕉の「古池や」とゴーギャンの絵の象徴世界。 


「古池や 蛙 飛こむ 水の音」


これは小学生でも知っている松尾バナナの、いえ、松尾芭蕉の俳句です。
※1
蕉風開眼の句とされ、この作品から俳句は新しい領域に入りました。

正岡子規は「表面に現れたるだけの意義」しかないと切り捨てているようですが、
古池に蛙が飛び込んで水音がした、閑寂だなあといった意味でしょうか。

11k.jpg
http://themetapicture.com/dealing-with-rainy-days/

どんな思いで見るかによって、世界の景色は変わります。
「古池や」の句とゴーギャンの絵から、現実世界に象徴世界を見る視点を考えました。


                 


「古池や」は、絵画でいえば象徴主義の句と言える。

この句が誕生したのは、貞享三年(1686)春、芭蕉四十二歳のときです。
深川は芭蕉庵での句会で、まずは句の中下「蛙飛(とび)こむ 水の音」が出来ました。

和歌では蛙は山吹とセットだったので、其角が「山吹や」はどうか?と言います。
※2
しかし芭蕉は、俳諧の伝統思考からも離れ、しばし瞑想し、「古池や」と言いました。
つまり「水の音」は現実の音ですが、「古池」は芭蕉の心の中に浮かんだ幻影なのです。

この句は「古池」ではありません。「古池」となっています。「や」とは“切れ字”で、
前後を切るための言葉です。ゆえに古池シーンと蛙飛び込むシーンは別の世界です。

芭蕉は、ポチャンという水音を聴いて心の目が開け、古池の静寂な時空を見ました。
蛙は活動音で生命の営みを示している。天地は無言で悠久の営みを続けている。
※3
ここで俳句は、事象の写実から、心の内面も描く象徴詩的な芸術に進化したのです。


wapo5.jpg
PIXABAY(フリー画像)

句の解釈は長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんでいない』(花神社)を基にしています。

                 


後期印象派のゴーギャンも、象徴主義の絵を描いている。

アルタミラ洞窟の壁画以来、西洋絵画は、できるだけ対象を忠実に描くものでした。
しかし19世紀になり、印象派と並んで新しい芸術の流れを作ったのが象徴主義です。
実際に目の前にないものも象徴的に絵に描き込み、精神や幻想を表現しました。
※4

ポール・ゴーギャン『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』
(1888年)
akjhu2.jpg

ケルト民族の衣装を着た女性たちが説教を聞いた後、その聖書物語を想っています。
右上は、族長ヤコブが天使と組打ちをしている名場面。ヤコブが、祝福してくれる
までは離さないと言うので、天使は彼の名を“イスラエル”に変え、祝福します。
※5


手前の敬虔な女性たちは現実の世界。上の天使と人間はシンボリックな聖なる世界。
二つの世界を斜めの木が分けています。太い輪郭線で縁取りし、野原は緑色にせず、
赤で浮世絵のようにベタ塗り。自然を見たままに描く印象派の表現を超えています。

この絵は「古池や」ほどの深遠さはないですが、内面の信仰心を表そうとしています。
芭蕉と同じく、ゴーギャンもまた写実を超え、新しい領域の絵を開花させたのです。

                 

人間は常識という名のメガネを掛けていて、物事の表面だけを見る傾向があります。
しかし芭蕉は何の変哲もない水音を聴いたときに、天と地の静寂を見つけたのです。
ゴーギャンは日々の生活の中にも、敬虔さや神聖さのある世界を見たのでしょうか。

芸術も、人生も、ちょっと視点を変えてみれば、新しい別の世界が開けそうですね。



補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:芭蕉はバショウ科の多年草。英名はジャパニーズ・バナナです。食用に不適。

※2:和歌では「かはづ」とは鈴の音のように鳴く河鹿(かじか)。涼しげな“鳴き声”に
着目するのが常でしたが、芭蕉は、近くのゲコゲコ鳴く蛙を「かはづ」と詠みました。
「かはづ」は万葉の昔から山吹の花と結びつけて詠まれるのが和歌俳諧の伝統でした。
「九重に 八重やまぶきを うつしては 井手の蛙の 心をぞくむ」(千載和歌集)
・「かはづなく ゐでの山吹 ちりにけり 花のさかりに あはましものを」 (古今集)

※3:「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の句も「古池や」と同じで、岩に滲み入るほどの
蝉の鳴き声を聴いたときに、芭蕉の想いは宇宙に飛び、その「閑さ」を思ったのです。

※4:ゴーギャンはポスト印象派ですが、象徴主義の画家として位置づけられること
があります。なぜなら、写実的な再現の否定や、平面的で装飾的な画面構成の重視、
主観性の強い内面表現、神秘主義的な題材を使用するといった傾向があるからです。
この象徴主義はアール・ヌーヴォーなど1890年代から20世紀初頭の世紀末芸術に
も大きな影響を与えました。
(Wiki.) この百年ちょっとの間の進化は凄いものですね。

※5:創世記32:23-31。イスラエルとは神と闘う(粘り強い)、または神は闘うの意。
イスラエルはヤコブの子孫全体の名となり、神と契約を結び、神の選民となります。
天使とヤコブの組打ちポーズは葛飾北斎の『北斎漫画』を参考にしたとのことです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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>事象の写実から、心の内面も描く…

5・7・5の17音で、それらを完結させる俳句には、いつも感心させられます。
特に芭蕉は好きで『奥の細道』は熟読した記憶が……。

>ポチャンという水音を聴いて心の目が開け、古池の閑寂と泰然を見ました。

まさしく“精神世界”に遊んだのですねぇ。

ゴーギャンの絵も、彼自身の精神性そのもの。
歌も絵も、詩や散文も、人はまさに『表現者』。
『これが、わたしだ‼』を生きているのですね。

2016/12/17(土) |URL|風子 [edit]

奥が深いですね

バーソ様
おはよう御座います。

俳句にしても絵画にしても奥が深いですね。
私などいくらいい句があってもいくらいい絵があっても見逃してしまいます。
真剣にその奥にあるものを引き出そうと思ったら頭が疲れるでしょうね。
引き出せたとしてもそれは各自の感性であって芭蕉やゴーギャンの感性とはまた別のものになっていると思います。
あ~難しい。

愛新覚羅

2016/12/17(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: タイトルなし

風子さん コメントありがとうございます^^)
 『奥の細道』を読む人はいても熟読する人はあまりいないでしょうから、風子さんは何でも深く追究するタイプなんですね。
 私の夢の一つは芭蕉の辿った道を歩いてみることです。先日、深川に行った際、芭蕉庵跡の前を通ったのですが、寂しげに存在していました。奥州に実際に行っても似たようなものなんでしょうか。

 「古池や」の句はいろいろ英訳されていて、このたびの記事の中に載せようと思って、面白そうなのを四つ選んだのですが、長くなるので割愛しました。俳句は、五七五と言葉数に制限があるのがいいのでしょう。制限があるので言葉を練って練って磨けるのでしょう。人生もそうできればいいですね。

> ゴーギャンの絵も、彼自身の精神性そのもの。
歌も絵も、詩や散文も、人はまさに『表現者』。
『これが、わたしだ‼』を生きているのですね。

 なるほど。さすが、スピリチュアルの風子さんです。「これがわたしだ」はニールさんの言葉でしたか。意識していようといまいと、人は皆自分の選択した人生を生きています。ならば、みんなが歩む道を歩くのも堅実な生き方。自分の好きな道を歩くのも、安定はないとしても面白そうな生き方。この人生は一度きりと強く思うか思わないか。これが自分の人生の大きな分かれ目になりそうです。いずれにしても、いい人生を送りたいものですね。

2016/12/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 奥が深いですね

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
> 俳句にしても絵画にしても奥が深いですね。
 芸術というのは、凡人には分かりかねるところが、芸術のゆえんなのでしょうか。その道の専門家に解説してもらって、やっと理解できる場合もありますね。象徴的・抽象的な作品も分かりにくいのですが、特に見た目が普通の作品に見えるものに、じつは深い意味があったりして驚かされます。

 でも、いや、そうじゃない。芸術は誰でもが見て楽しむものだから、人はそれぞれ自分の感覚で楽しめばいいのだという意見もあります。それも一理ありそうです。

 私は詳しい人に教えてもらったほうがいいですね。そうすれば自分の感覚が正しかったと思えるでしょうし、あるいは間違っていたとも分かるでしょう。いずれにせよ違う視点で見られるようになって、自分の思考の軌道修正もできますので。
 
 美術展に行ったあと、ネットや本で調べると、あら、そういう意味だったのか、もっとよく見ればよかったと後悔することがよくあります。

2016/12/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

映画界にいた頃、カメラマン達が「カメラは嘘を付かない」と自負していたのを思い出しました。
ところが、デジタルが登場するに及んで彼らは迷い始めました。CCDがレンズを通した画像を勝手に補正してしまうからです。
「これは本物の絵じゃない。偽物だ!」と言う彼らと、最初っからデジタルで育った若いカメラマンの感性の違いが出ました。
しかしよく考えてみれば、そう言う古いカメラマンもレンズを通して得た画像を脳内のフィルターで補正していたのではないか?
人は自分が見たいもの…こうあるべきだと思うものしか見ようとしない…はて、どちらが本物なのか?どちらが真実なのか?
どっち道、人の脳は物事のありのままを見る事が出来ません…我々は霧の中をさまよっているのかも知れませんね(笑)

2016/12/17(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 ムービーキャメラがフィルムからデジタルに移行した頃も映画界で活躍していたのですね。 
 昔、CF撮影の演出や立ち会いをしたことがありますが、最初の頃、逆光時にレフの光を顔に当てているのを見て、陰なのに顔だけ妙に明るくて気になったものです。
 人間の目は補正して見ているので、陰でもそう暗くは見えないのですが、フィルム撮影ではレフを当てないと想像以上に真っ黒に写るのですね。コダクロームだったかエクタクロームのラチチュードが狭いせいもあるでしょうが。

 空の色はなぜ青いか。空の空気が青いからではなく、脳内で青いと感じているだけ。月がとっても青いと言われると、遠回りして帰ろうとなるのか、来年の今月今夜の月を涙で曇らしてやろうとなるのか、その青さを見る感情も個々の人の状態でいろいろと変わりそうです。

 人間は、事象を、自分の思考や、感覚、そのときの感情、過去の記憶といったフィルターを通して見ているのでしょう。なので真実の色とは一つというよりも、かなり沢山ありそうです。と考えたほうが論争にならなくて良さそうですし、芸術の幅も広がりそうですね。

 色の派手な蜷川実花さんなんか、戦前の昭和だったら迫害され、ヨーロッパの中世だったら魔女扱いされたのではないでしょうか。この人が木村伊兵衛写真賞を受賞しているのが、ちょっと面白いと思います。木村伊兵衛はライカ使いの名人で、モノクロームのリアリズム写真を撮った人ですから。
 私は、思い切ったことにチャレンジしている芸術が好きですね。

2016/12/17(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

映画はモノトーンで

お早うございます
或る日
自衛隊の潜水艦のハッチが開いた写真を観ました
なぜか『異様』に感じたのです
この不思議感が判るまでに数年がかかりました
そして
ある軍事評論家が
潜水艦の能力は『殻』の厚さで測れる、といいました
つまりあのあいたままのハッチは
殻の厚さを晒した間抜けな行為だったのです
おいらは自分が間抜けだと気がつくことに
数年がかかりました
あはは

ば~そさんの記事を読み解くには
ふつう三日ほどかかりますが
今回はいくつかのコメントでわかりました
ありがたい事でございます
あはは。

2016/12/18(日) |URL|はしびろこう・ウナ [edit]

おはようございます

>俳句は、単なる事象の写実から、心の内面も描く象徴詩的な芸術に
>進化したのです。和歌では蛙は山吹とセットだったので、其角が「山吹や」は
>どうか?と言います。

実際に「山吹や・・・」の句も出回っていたらしいですね。
これってすごいことです。門弟といえど芭蕉の句に口を挟める。
当人の心象より芸術性を大事にし、句合(句会)で批評しあって
句の芸術性を高めていくんですね(WIKIによると)。
プレバトの講師の俳句の批評・添削でよくなっていく過程を見たことが
あります。まあその分、句作者の心象が薄れるような気もしますが。
写実主義一辺倒の西欧の画家が日本の浮世絵に多大な影響を受けて
デフォルメや抽象的な方向に向かったのは行き詰まり感があったのでしょうか。
おもしろいことにシーボルトが持ち帰った絵画の中に北斎が描いた(西欧風の
写実的な)風景画が発見され話題になっています。

2016/12/18(日) |URL|エリアンダー [edit]

Re: 映画はモノトーンで

はしびろこう・ウナさん コメントありがとうございます^^)
 ハッチが開いているのを見て異様感を感じたとは、直感が優れているということでしょう。耐圧能力は殻厚で決まり、潜水深度も分かる。関係者は徹底的に教え込まれているはずなので、意図的に薄くしたフェイクのハッチを見せたということはないですかね。ないでしょうね。(笑)

 「そうりゅう」は、効率は悪いがほとんど無音のスターリングエンジンを積んでいて、それがスェーデン製だということは知られています。
 オーストラリアに売り込みに行ってからは、すべて秘密事項はなくなったのではないかと思っていますが。

 拙ブログはステルス性などなく、おおむね赤裸々に本音を語っています。通常は軽く読み流すと、おおよその理解と共感ないしは反発が得られることになっていて、3日も掛けて読むと骨の髄まで分かり、底の浅さが露呈する仕組みになっています。そうなると脳内秘密の漏洩問題に発展することになっていまして、さてどうしたものかと、いま軽い頭を抱え、悩んでいるところであります。

 がしかし、真摯な努力をしてまでも面白いコメントを書いてくださっていることに対して深い感謝を申し上げるとともに、そのうち私の実態がわかる事態となり、では駆逐し、撃沈してやろうなどと態度豹変されることのないよう切にお願いいたしますよ。(笑)

 映画はモノトーンがお好きですか。モノクロで思い出す映画は、黒澤の『七人の侍』と岸田今日子が出た『砂の女』と、最近ではブルース・ウィリスやミッキー・ロークが出た『シン・シティ』ですね。これは映像が面白くて意味不明で3回見ました。全部テレビで見たのですが。

2016/12/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: おはようございます

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 いつも検索したりして、関連情報を調べることまでして、深く、興味深く、面白いコメントを書いてくださり、まことに有難いことです。

 さて、とあらたまって言うほどではないですが、其角は和歌を連想して常套の発想を超えようとした。芭蕉は和歌を外れて、其角の発想をも越えようとしたということですが、面白いと思ったのは「古池」と「飛び込む水の音」では映像イメージがあまりにも近すぎること。言葉はダブっているし、「古池」とは蛙が実際に飛び込んだ池と思われてしまうじゃないかということです。

 もっと場所が飛んでいる発想のほうが良かったと思ったのですが、田舎に行くと分かる通り、蛙は鳴き声が非常にうるさいものです。古池は閑静で人も訪ねてきません。なのでその場にいた門人たちには、「古池」とは芭蕉庵そばの池だか田んぼだかのイメージではなく、全然別の遠いどこかの古池の映像が心の中に浮かんだのでしょう。
 とすれば、この句は印象派の絵ではなく、象徴主義の絵だろうと思ったのですが、別の見方をすれば、音があるのに音がない句、弁士が説明しないと分からない無声映画のようだとも言えそうです。
 ともあれ文章は推敲でどんどん良くなっていきますね。ひと晩置いて見直すだけでも違います。絵とはそこが違いそうです。

 ゴーギャン風に描けば、画面下に飛び込もうとする蛙がいて、画面上に古池のイメージがある。画面の真ん中に大胆に置いた一本の柳の木が両者の世界を分けている(これは広重「亀戸梅屋敷」にヒントを得ているのじゃないでしょうか)。そんな構図を思いましたが、そうなると説明的で、たいした絵じゃないとなるので、やはりすべてを書き(描き)尽くさないで、余韻を残すところに芸術の妙味があるのでしょうか。と書いたらディートリッヒの『モロッコ』のラストシーンを思い出しました。

 シーボルトの持ち帰った絵は見ました。いつもの北斎の風景画に比べて、格段につまらないと感じました。

2016/12/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

音の記憶と予感。
幻聴といってもいい。
音のない音を聞く。
景色が音を連れてきます。

僕の理解は、芭蕉が古池を見たか、
イメージしたときに、
音が聞こえた、って感じです。

タイトな状態にあるときに、
僕たちは、
きちきち、ぴちぴち、
ぱつぱつ、ぱっつんぱっつん、
なんて音を聞きます。
音のない音は、
破裂を予期した破裂音で、
景色が音を連れてきます。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声、
これは、逆に、
景色が音を奪い去る。
芭蕉は、セミ自体を見ていない。
僕たちが部屋の中にいるときに、
雨の音を聞き続けていられないように、
音がしない景色では、
音を聞けない。

バーソさんの考察とは異なりますが、
僕の理解ですから、
世の中的には、間違いでしょうw。

2016/12/18(日) |URL|青梗菜 [edit]

Re: タイトルなし

青梗菜さん コメントありがとうございます^^)
 どうも文章の趣旨をまた読み違えていませんかね。
 前回は、平和な心の一致、つまり争いや憎しみや戦争のない世界のことを書いたつもりでしたが、あなたは、思想の一致と読み、焚書坑儒をする独裁政権がする強制的な思想統一のように受け取ったようです。

 今回は、芭蕉が日常の小さな音を聴いて、音のない世界を想ったという視点(発想)の転換を面白いと思って書いたつもりでしたが、それを古池で見た(イメージした)とか、セミ自体を見てないとか、場所のことを言っているようです。

 ひとつひとつ反論はできますが、する意味がなく、関心もないので、ご意見承っておくだけにしておきますよ。

> 僕の理解ですから、
世の中的には、間違いでしょうw。

 世間とは違うことをいつも誇りに思っているようですが、思いや視点は、私ともかなり違うようですね。

 今回は、イントロにこう書きました。「どんな思いで見るかによって、世界の景色は変わります」。まさにこの通りじゃないですか。(笑)

 なお、古池の句の解釈は私の考察ではありません。「句の解釈は長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんでいない』(花神社)を基にしています」と目立つように書いてあります。私は、それを面白いと思って、ただゴーギャンの絵と結びつけただけのことです。

2016/12/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは、バーソさん。
バーソさんの記事は毎週楽しみにしています。
コメントを書かせてもらいますね。

世の中には、自分の持っている変化の違いによって、
考え方の違う人はいると思います。

わたしから見たら、バーソさんは
色々な見方や考え方ができて、
すごい人に見えます。

コメントを返す能力もすごいと思います。
そこで自分の思いもきちんと言っていますから
本当にすごいと思います。

果たして、わたしにバーソさんの真似ができるかと
考えたとき、精神的なことを考えると、
わたしにはやれないと思います。
そんなことを思い、わたしのブログへの
コメントを返すときに、
バーソさんの名前を出させてもらいました。

今回のどんな思いで見るかによって、
世界の見る景色は変わるということについては、
わたしは、わたしの視点で世界を見るということで、
見える景色は変わるのだろうなと思いました。
わたしにも、とてもぴんと来る言葉でした。

わたしの場合は、常に自分を主とした視点で
世界をみようとします。
それが自分の世界だと思うからです。

その自分の視点から見える世界は、
もしかしたら、他の人たちが見ている世界とは
違うものなのかもしれません。

世の中の人々の違いって、
そのように出来ているのではないかとも思いました。

もちろん、バーソさんとわたしの視点も完全に
一致ではないと思います。

人は、自分にないものを他の人に求めることが
あるからだと思うのです。

違いがあって当たり前と思え、それが世界に
変化を与えるものだとも思います。
もし、違いがなければ、世界は変化を
しなくなるのかもしれません。

わたしが思う、世界が創られた理由というものには、
変化が変化を与え、新たなものを
創り出すためにあるという考えがあるからです。
これが、今のわたしが世界を見る視点です。

実際に、わたしは自分自身で動き、
そして、自分を変えて、
変わった自分を見た
周りの人に変化を与えていると思います。
それが、わたしが起こす変化だと思います。

考えの違いも、自分の持っている変化の
違いから生まれるものなのかなとも思いました。

また、長々と書いてしまいました。
バーソさんから学べるものは学びたいと思っています。
これからの記事も楽しみにしています。
それから、コメント返しも楽しみにしています。

2016/12/18(日) |URL|真 [edit]

Re: タイトルなし

真さん コメントありがとうございます^^)
 えー、真さんは本当に優しいひとですね。また励ましていただいて、とてもうれしいです。毎日いろいろ忙しいでしょうに、すみませんね。

> わたしが思う、世界が創られた理由というものには、
変化が変化を与え、新たなものを
創り出すためにあるという考えがあるからです。
これが、今のわたしが世界を見る視点です。

 真さんからそう言われると心強くなります。私もそう思っています。
人間がこんなに多く地球上にいるのは、一人一人の人生の糸が絶妙に織りなされて、地球の人類史という壮大な一枚のタペストリーを織り上げるため、そしてだんだん美しくなっていくためだと思っています。

 人は自分の視点で世界を見ている。
 そして、見ているように世界は成っている。
 これ、実際に本当にそうなっているのでしょう。そう思いますね。
 本当に一人一人の変化があるのが当たり前ですよね。みんなが同じ思想と思考を持っていたら、人類はロボット集団になりますから。

 真さんの言葉通り、自分が変わって、まわりの人に変化を与え、それが自分にまた変化を与え、それが新しいものを生み出していく。世界は常に変化し、常に進化していくようになっているのでしょう。
 聖書には「神は変わらざる者である」と書かれていますが、宇宙の根源の神はそうではなく、常に変化し、進化している者であるようです。

 そういう意味でも、芸術も変わっていくのはいいことだと思います。
あるひとつのものを人生を掛けて追究していくのもいいです。でも次々と新しいものを自分の考えとやり方で創り上げていくのも、私は、なかなかいいと思っています。
 ひとつ所にとどまって安定状態にいるのもいいですが、たとえ失敗しようと、一歩でも二歩でも、長い目で見たら前に進んでいたというほうがいいですよね。
 またコメントを寄せてくださいね。

2016/12/18(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/12/18(日) || [edit]

まだ、芭蕉の時代は、俳句が独立してなくて、連歌でしたよね。
古池やーには、どんな句が付いたのか?
ゴーギャンは、こりゃ、ゴッホと共同生活するも、近代文明を嫌って、タヒチに行った画家ですからねー。
芭蕉も、ゴーギャンも、旅人の人生と言えますかな。
で、ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか?」という究極の問いに突き当たり、これを絵にした、国立近代美術館に来ましたね〜ご覧になられた?
我々が存在している。宇宙が存在している。
理由は誰にもこたえられない。
神とか、グレートインテリジェンスの存在を予感します。
科学では解決出来ない問いもある。

2016/12/18(日) |URL|oki [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメsさん コメントありがとうございます^^)
 「古池や」についての面白い本を読んだのですが、そのまま紹介するのではつまらないので、どう書こうかと考えていたら、自然をそのままに写実する俳句は絵画の印象派ではないかと気づいて、蕉風の場合は象徴主義と言えるかもしれないと思いつきました。

 象徴主義は、文学ではシャルル・ボードレールや、オスカー・ワイルド、マラルメ、ランボー、リルケ、音楽ではドビュッシー、絵画ではギュスターヴ・モローが有名です。

 これに影響を受けたアール・ヌーヴォーではミュシャ、ルネ・ラリック、エミール・ガレなどがいます。これに北斎画がずいぶん影響を与えたそうですね。そして日本に逆輸入され、漱石や与謝野晶子の小説の装丁などに影響を与えたそうです。だから明治大正期の本を見ると、アール・ヌーヴォーのデザインが多く、なんだか懐かしい気がします。

 芭蕉はよく歩きました。伊能忠敬もよく歩きました。アルキメデスも
あ、これはちょっと違いますね。これまた失礼しました。(笑)

2016/12/19(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

okiさん コメントありがとうございます^^)
 絵画芸術はokiさんの得意分野ですね。
 和歌から連歌、俳諧に至るまでずいぶん長い年月がありました。芭蕉により発句だけがとり上げられるようになったようですが、確かに「古池や」のあとはどう続くのか。それを考えるのもまた面白そうです。
 閑寂だと月並み、喧噪だとわざとらしく、和歌だと伝統的なワンパターン。ともかく古池のイメージばかり考えていると駄目なのでしょう。
 次元を変えた発想が必要ですが、抽象画レベルの領域になると、全然わからないので、その一歩手前ぐらいがいいのでしょうか。それにしても俵万智は大胆に日常語で句を詠み、俳句を大きく飛躍させました。

 文明を離れると自然に還る。自然に還ると人間本来の感覚が戻ってくる、のでしょうか。ゴーギャンのその絵は観ましたよ。そういえば近代美術館でしたかね。第一印象は、思ったより小さかったですね。もっと大きいのかと思っていたのです。でも、おお、これがそうか、とジーンと来て、しばしたたずみました。ゴーギャンの他の絵の色とは違っていて、暗い色調でした。

 人間はなぜ生きているのか、神はいるのか。究極の問いですね。
 しかし人格神は信じないとしても、なにか人智を超えた神的なものは感じるという人は少なくないようです。グレートインテリジェンスとかサムシンググレートを唱える人たちがいますが、これは、とかく尊大傲慢になりがちな人間を謙遜にする考えかもしれないですね。

2016/12/19(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/12/21(水) || [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメcさん コメントありがとうございます^^)
 最初、だれかと思いましたよ。でもまあ、相変わらずのようで何よりです。むずいですか。あはは。

 なかなか鋭いですね。そうです。その世間一般の普通の解釈に異論を唱えたのが長谷川櫂さんで、その独自の視点が面白かったので紹介したのです。
 この解釈に反対したら、反対の反対は賛成で、元の普通の解釈に戻ってしまいます。

 今回イントロの3行目に「古池に蛙が飛び込んで水音がした、閑寂だなあといった意味でしょうか」と書きましたが、一般的には、芭蕉が古池に蛙が飛び込んだ音を聞いて静けさを詠んだ句だろうと思われています。

 ただ、それだとあまりにも単純なので、もっと深い意味があるのではないかといろいろ考えられたようです。
 Wikipediaを見ると幾つかの解釈が載っていますが、これを見る限りでは長谷川櫂さんの具体的で文学的な論証には、ちょっと敵わないように思います。
 こういうのは抽象的な言葉を使って精神論的な論じ方をすると、いったい何を言ってるのかが分かりにくいですね。
 ともあれ私のような凡人には、むずいことはよく分かりません。(笑)

2016/12/21(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

そこにあることもないことも、自在に描けてしまうのが、絵画であり、言葉であり、音楽であります。人々は悠久の昔から自らの日常と目には見えないけれど畏怖の対象となるもの、畏れの対象となるもの、あの世のこと来世のこと、いろいろな事を書きとめ、音にし、描いてきました。
人間がこの時代にはじめて写実をこえたのかというと、はじめから、とっくにこえていたのではないか、と思えるのですが?いかが?

バーソさんがコメントにしてくださった「誰もがつまりはそれでいいのだと言える人生を送っている」という言葉が心にしみます。何事も「それでいいのだ」と言えるには時間が必要ですが・・。

2016/12/23(金) |URL|宝香 [edit]

Re: タイトルなし

宝香さん コメントありがとうございます^^)
> 人々は悠久の昔から自らの日常と目には見えないけれど畏怖の対象となるもの、畏れの対象となるもの、あの世のこと来世のこと、いろいろな事を書きとめ、音にし、描いてきました。
人間がこの時代にはじめて写実をこえたのかというと、はじめから、とっくにこえていたのではないか、と思えるのですが?いかが?

 おおー、なるほど。そうですね。神話を描いた絵画などはまさに代表的で、確かに“自然”を対象に描いた絵ばかりじゃないです。

 私は西洋絵画史の“対象”ではなく、“技法”と“視点”が画家の意識により、19世紀後半になって大きく変化したと言いたかったのですね。

 対象もしくは題材が“自然”ではなく“見えない世界”であっても、できるだけ対象を写真のように写実に描いていたのが、彼らは“印象”を描いてるじゃないかと揶揄された画風がフランスに登場し、そして象徴主義が出てきて、それ以来、西洋画の表現法が格段に飛躍しました。

 だからゴーギャンも、題材は“自然”を描きながらも、そこに内面の映像を盛り込んだり、従来の遠近法を捨てたり、塗り方も平面的になったりと描き方が変化しています。
 芭蕉も、題材はあくまでも“自然”であって変わってないのですが、視点が変わって内面の世界が象徴的に詠まれるようになり、以来、蕉風として俳句の世界が変わっています。

 ですが、確かに仰せの通り“自然”を対象に写実していたのではないので、以下のように書き換えました。


前 「西洋絵画は、できるだけ自然を忠実に描くものでした」
              ↓
後 「西洋絵画は、できるだけ対象を忠実に描くものでした」

 というわけで、じつに鋭い指摘をいただいて反省しています。ありがとうございました。

 ちなみに私の文章の書き方ですが、イントロ以下の本論の部分は、各行の文字数を全部きちっと揃えて書く趣味(美意識?)がありました。
 なので、たとえば4文字の適切な言葉を思いついても、その行に入る文字数の関係で3文字しか入らない場合には、やむを得ず適切ではない他の代替語を妥協して使っていました。
 したがって、どうしても言葉足らずや冗長になったりとか、ぶっきら棒な箇条書き調になっていて、それがじつは少し気になっていました。

 なので、この次の記事から、文字数を揃えて“見た目重視”で書くのはやめたのです。ただし極力1行(あるいは2行)に収めるようにはしていますが。


 人はみな誰もが自分にとって必要な人生を完璧に送っている。どの人の人生にも失敗はない。人生には抑揚はあるのが当然。谷底があるからそこからの這い上がる面白さを学べる。山に頂上があるから絶頂感を味わえる―――と私は思っています。家庭環境を見ると、宝香さんは、私とは別次元の良い世界にいたように思えますよ。(^^♪

2016/12/24(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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