「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 バプテストのヨハネは「勇気を与える」人だった。 

首を皿に載せられて祝宴の席に出された人と言えば、誰の名を思い出すか。
バプテストのヨハネだろう。

浸礼者ヨハネは生前、イエスを疑っているかのような質問をイエスにしたことがある。
ところが疑られたはずのイエスは、ヨハネを「最大の預言者」だと褒めている。
ヨハネは疑ったのに、なぜイエスから褒められたのか?

今回は、じつはヨハネは疑り深い人ではなかったのだ、と弁護する話である。

サロメ写真

※ヨハネは、ユダヤの領主ヘロデの不道徳な結婚を 大胆に非難し、牢屋に放り込まれ、
ヘロデの前で 官能的な「七つのヴェールの踊り」を踊った少女サロメへのご褒美として、
首をはねられ、悲惨な最期を遂げた。 --マタイ14:1-12,戯曲『サロメ』

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バプテストのヨハネは、獄中から、イエスに質問を言い送った。
マタイ11:3 「牢屋の中でキリストの業について聞いたヨハネは
自分の弟子たちを使いとして送り、
あなたが来たるべき方(約束された救い主)なのですか、
それとも、私は他の方を待つべきでしょうか
』 と彼に言った」

                     _ _ _ _ _

なぜヨハネは信仰の欠けたような質問をしたのか?
当時、民衆は、ローマ政府を打ち倒してユダヤを再興する革命的なメシヤを待ち望んでいた。
ヨハネも、イエスが 「自分の脱穀場をすっかりきれいにし、自分の小麦を倉の中に集め、
もみ殻のほうは、消すことのできない火で焼き払う」と言って、メシヤが激しい裁きを
地上にもたらすことを預言していた(マタイ3:12)。
しかし、実際のイエスの行動は、ヨハネの預言や民衆の期待とは異なっていた。

うした状況下でヨハネがした質問、『あなたが来たるべき方なのですか、
それとも、私は他の方を待つべきでしょうか
』 については、いろんな解釈がある。
1.イエスが本当に約束されたメシヤなのかを、ヨハネは確認したかった。
2.期待した革命行動をイエスが起こさないので、早い行動を促そうとした。
3.ヨハネは自分の弟子たちの信仰を強め、イエスの下に導きたいと思った。
4.ヨハネは、獄中の自分を助けてくれるのがキリストの役目だと思った。
5.ヨハネは、獄中からイエスに自分の確信を表明した。

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ヨハネが疑ったわけではないと考えられる根拠は?

1.ヨハネの質問に対して、イエスは自分の行なった業を列挙した。
マタイ11:4「イエスは答えて言われた、『行って、あなたが見たり聞いたりしている事柄を
ヨハネに報告しなさい。盲人は再び見、足なえの人は歩き回り、らい病人は清められ、
耳の聞こえなかった人は聞き、死人は甦らされ、貧しい人々には 良いたよりが宣明されています。
私につまずきのもとを見いださない人は幸いです」。


2.これらの奇跡は、預言されていたメシヤを示す特徴的な奇跡であった。
イザヤ35:4-6 「神ご自身が来て、あなた方を救ってくださる。・・・その時 『盲人の目は開かれ、
耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時、足のなえた者は雄鹿のように登ってゆき』」
61:1 「主権者なるエホバの霊がわたしの上にある。 それは、エホバがわたしに油を注ぎ、
柔和な者たちに良いたよりを告げるようにされたからである」


つまり、獄中のヨハネに対し、イエスは、自分がメシヤである根拠を列挙し、
もっとわたしを信じなさい と言ったように思えるかもしれない。
そして、「わたしにつまずきのもとを見いださない人は幸いです」という言葉は、
ヨハネの信仰の弱さを少し皮肉って叱ったのだ、と考える人がいるかもしれない。
しかし実は、そうではないのだ。 (そう考えられる理由をこのブログは論じている)

3.そして、イエスはヨハネを最大限に賞賛した。
11:9 「預言者をはるかに上回る者です」
11:10「その人について『見よ、わたし自らあなたの顔の前にわたしの使者を遣わす。
その者はあなたの前にあなたの道を備えるであろう!』と書かれている人です」 ※イザヤ40:3,マラキ3:1
11:11「女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません」


∴イエスがヨハネを最大限に賞賛したということは、ヨハネは信仰があったのだ。

前回ブログのマタイ5:3注解でも述べた通り、聖書では「幸いです」という言葉は、
常にポジティブな意味で言われている。
つまり、獄中のヨハネがイエスから「幸いです」と褒められた ということは、
ヨハネはメシヤとしてのイエスにつまずかなかったことを示している。

多くの人々がつまずいた状況で、ヨハネは確信を持ち続けた。
すなわち、イエスにつまずかなかった
のだ。

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マタイ11章3節は、疑問文に訳せるが、肯定文にも訳せる。
ギリシア語には肯定文と疑問文の区別がなく、英語の疑問文のように主語と動詞の位置を
入れ替える必要がない。だから、強い肯定文として訳すこともできる。

マタイ11:3(断定肯定文): 「あなたが来たるべき方なのです。それとも、
私は他の方を待つべきでしょうか、( いいえ、そうではない!)」


ヨハネは信仰が強かったと思って見ると、疑問文のままでも、同様の解釈ができる。
つまり、強調のための修辞疑問文とみなすことができる。

マタイ11:3(修辞疑問文): 「あなたが来たるべき方なのですか
それとも、私は他の方を待つべきでしょうか、(いいえ、そうではない!)」


ヨハネは、明日の命も分からない状況にありながら、イエスこそ約束されたメシヤだとの
確信を表明し、獄中からイエスを気遣い、励ます言葉を言い送ったのだ。
だからこそ、イエスは、メシヤとしての奇跡を 数々行なっていることを丁寧に列挙して、
ヨハネの信仰告白を肯定し、補強し、称賛したのだ。

当時の多くの人は、自分の期待したメシヤ像とイエスが違うのでつまずいたが、
ヨハネはつまずかなかった。 それゆえイエスはヨハネを 「幸いです!(6)」と誉め、
「女から生まれた者の中でヨハネは最も偉大です」と最大級の評価をしたのだ。

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11章6節のギリシア語は、語順的には感嘆文にも訳せる。
「Happy is who likely not might have been stumbled in me」 王国行間逐語訳
「実に幸いだ、私に躓かない者は」 岩波翻訳委員会訳
「さいわいなのはわたしにつまずかぬ人!」 前田訳
「おほよそ我に躓かぬ者は幸福なり」 文語訳


元「キャンディーズ」のスーちゃんが 先日亡くなった。 最後の肉声テープの冒頭では
「大震災で被災された皆様のことを思うと胸が張り裂けるように痛みます。
必ず天国で被災者のお役にたちたいと思います」 と弱い声で述べていた。

彼女がどんな信仰を持っていたのかは知らない。 でも自分の死が間近だと知り、
病床にありながら、他の人々を気遣っている。 その静かな声を聞いたとき、
そう、これが本当の信仰なんだよ、と胸がギュッと締め付けられる思いがした。


ものみの塔は、「この世は穴が開いて沈没中の欠陥船のようなもので、沈みつつある船の穴を
ふさぐ努力を しても意味がない」と言う教団である。 しかしまた「エホバの証人には愛があり、
それが真の神の組織の証拠である」とも言っている。

今回の大震災で、願わくは、協会が JWにも近隣の人々にも物質的援助をしてくれたらいいのだが・・・。
参考までに協会の手紙と日本支部の資産を紹介しておく。
 ●JW公式ウェブサイト未信者にも物質的援助をしているとは読みとれず)
 ●日本支部の直近の基本財産176億2042万9794円 平成19年登記簿)

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ヨハネは偉大な人物ではあったが、非常に謙遜であった。
ヨハネは父親が祭司で、石工の子イエスより家柄が良かった。
ルカはヨハネの詳細な誕生話から 福音書を書き始めている。 生まれたときには、
イエスと同様、み使いが現れて祝福している。エリヤのような預言者の装束を身に付け、
イエスより先に宣教を開始している。キリストとみなされたこともあり、当初はヨハネのほうが
民衆に人気があったようだ (マタイ3:1,4,13-15, 列王第二1:8,ルカ3:15)。

だがヨハネは、「わたしはその方(イエス)のサンダルの締めひもをほどくにも値しません」と述べた。
この言葉は四つの福音書全部に記録されているほど有名で、
ヨハネが非常に謙遜であったことを示している。
※あるいは、イエスのほうがヨハネより上だということを、福音書筆者、
もしくは後の時代の聖書編纂者が読者に強調したかったのかもしれない。

ヨハネは、“義の人”であり、“勇気の人”でもあった。
当時、時の支配者に嫌われれば、投獄か獄中死か極刑が待ち受けていた。
それでも、ヨハネは、領主ヘロデ・アンティパスが異母兄の妻と結婚していたのを知り、
その不道徳を大胆に指摘している。これは、彼が勇気の人であり、
また、勇気を与えてくれる人であったことを示している (マルコ6:17-29)。

いまスポーツ選手や歌手が、被災地の方々に勇気を与えたいので、最後まであきらめずに
プレーしますとか、心を込めて歌います、というのとは 「勇気」のレベルが違うのである
(人はそれぞれ賜物が違うので、非難しているわけではない)。

ヨハネは、偉大であったが、自分の職分・役割をわきまえていた。
ヨハネ1:20 「わたしはキリストではありません」
1:23 「わたしは預言者イザヤが言ったとおり『エホバの道をまっすぐにせよ』と
荒野で呼ぶ者の声です」


偉大なマスター(師)は、決して宗教組織の教祖にはならないそうだ。
キリスト教の経典は弟子たちが書いた。キリスト教会は弟子たちがつくった。 仏教も同じだ。

バプテストのヨハネは、聖書で予告されていたほど著名な預言者だったが、
自分は、人々をイエスに導くだけの単なる「声」に過ぎない、単なる紹介者に過ぎない
と認識していた。尊大な教祖や指導者になるつもりはなかった。使命感は非常に強かったが、
名誉欲は全くなかった(ヨハネのこの点が わたしは好きだ)。

saro.jpg

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神の力は非常に強力なはずである。
聖霊は人間一人ひとりを教え、導く、と言われている。
--ヨハネ15:26,16:13

それなのに、聖書の解釈間違いと訂正を繰り返し続けながら、なおも、自分たちは
神の唯一の預言者であり、組織を通してでなければ救われない、と言う教団はいかがなものか。

それはキリストの実在と力についての確信が弱いことを示してはいないだろうか。
もし 統治体の成員全員がクビを切られ、組織の体質がまっサラに革新されるなら、
サロメ(シャローム=平和)な いい宗派になると思うのだが。

(このブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございました)



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