「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 トマスは、見て信じた「幸いな人」だった。 

十二使徒の一人に「トマス」がいる。彼は、疑り深い使徒として知られている。

なぜならトマスは、イエスが復活したと仲間の弟子たちから聞いても、
私の手を釘の跡と脇腹の傷跡に差し入れない限り決して信じない」と言ったからだ。

トマスが信じるようになったのは、八日後、イエスが、トマスにも現れて体の傷跡を見せ、
そして「あなたは私を見て信じたのですか。 見なくても信じる者は幸いです」と
トマスを叱って諭したから、と思われているようだ。

トマスは かわいそうに、印象が良くない。 彼は本当に疑り深い性格だったのか。
だからイエスから叱られたのか。 ヨハネ20章を調べ、トマスを弁護したい。

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じつは他の弟子たちも、「見て」信じた。
トマスだけ信仰が弱かったわけではない。

20節に「こうして弟子たちは見て歓んだ」と書かれている通り、仲間の弟子たちは
イエスを実際に「見て」信じた。
だから、「見て」信じた点では、トマスも他の弟子たちも変わりはない。
つまり、イエスの「見なくても信じる人は幸いです」という言葉は、見たら信じる
と言ったトマスを叱って 皮肉っている言葉ではない。

トマスは「双子」と言われ、イエスのそっくりさんだったようだ。
24節には「双子と呼ばれるトマス」と書かれている。誰の双子か言われてないということは、
イエスの双子と言われるほど顔が似ていたと考えられている。
トマス福音書には「デドモのユダ・トマス」とある。デドモはアラム語で双子。
イスカリオテのユダと区別するために双子のユダと呼ばれたという説もある。

トマスがイエスと似ていたとすれば、顔がそっくりな二人が向かい合い、
一人は穏やかな落ち着いた顔で傷跡を見せ、一人は 驚きつつも神妙な顔で相手の傷跡を
見ているという、かなり印象的なシーンであったと思われる。

トマスは殉教死をも辞さないほど強い信仰の持ち主だった。
少し前の11章では、イエスが「もう一度ユダヤへ行こう」と弟子たちに言われたとき、
そこはつい最近イエスが石打ちにされそうになった土地だったので、
トマスは「わたしたちも一緒に行って死のうではないか」と仲間の弟子たちに言っている。
※トマスはイエスと顔が瓜二つだったので、身代わりになってイエスを逃がそうとした、
ということがゲイリー・レナード著『神の使者』に書かれている。

それで、トマスはイエスのためなら死んでもいい と思うほど信仰が強かった。
決して疑り深い優柔不断な性格ではなかった。「傷跡を見たら信じる」というのは、
トマスが、よく調べもせずに信じるような盲目的な信仰の人ではなく、
よく調べてから信じる合理的かつ科学的志向の人であったことを示している。

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聖書に出てくる「幸いな人」は、叱る言葉ではない。
「幸いな」と言われているのは、例外なく祝福する言葉である。

マタイ5章の「山上の垂訓」の冒頭にある九つの「幸いな人」も、
啓示の書の七つの「幸いな人」も、みんな祝福の言葉だ。

例えばマタイ5章3節は、新世界訳では「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」
と平叙文に訳しているので、ああ、それぐらいのことは知ってるよと言いたくなるが、
文語訳では 「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」と感嘆文に訳していて、
これはギリシア語の原義をより適切に伝えている
※「Blessed the poor to the spirit」 (ダイアグロット行間逐語訳)
※「ああ幸いだ、神に寄りすがる貧しい人たち」(塚本訳)

つまりイエスは「ああ、なんと幸いなことよ、霊において貧しい人は」と感嘆し、
称賛しているのだ。 なぜならその人は、自分は霊的に貧しいので導きを受けたい
と天に心を開いており、それゆえ「天の王国はその人のものだから」だ。


見て信じた人も、見なくても信じる人も、共に「幸いな人」である。
31節では「これらのことは、イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるために
記されたのである」と書かれている。
ヨハネ福音書は1世紀の終わり頃に書かれた。「あなた方」とは、イエスに会ったことがない
世代の「読者」のこと。現代の私たちを含めて誰でも、聖書を読んでイエスを信じられるなら、
みな「幸いな人」であると言われているのだ。

だから、イエスを見て 信じたトマスは「幸いな人」であったし、
イエスを見たことがなくても、聖書を読んで信じているあなたも、同じく「幸いな人」なのである。
トマスは、決して疑り深い人として非難されたのではないのだ。

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「幸い」とは、自分で《なる》ものであり、《なれる》ものだ。

とかく人は、「幸福」とはいつか将来に来るものであって、自分が考える幸福の条件が整ったら、
そのとき 幸福に“なれる”と思っている。
しかし、聖書の「幸いな人」とは、「幸いになれる人」ではない。
いま現に、この時間、この瞬間に「幸いな人」という意味なのだ。

「幸福」とは本質的に今の心の状態”である。新世界訳が、「霊において貧しい」を
「霊的な必要を自覚している」と意訳している通り、それこそ霊的な問題である。
だから、たとえ、いま物理的な幸福条件が揃わなくても、自分が“幸福である”と思えるなら、
平安な精神状態でいることはできる。いま この瞬間、“幸福でいよう”と気持ちを切り替えられれば、
内なる平和を保つことはできる。

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※写真はトーマスのサイトから拝借させてもらった。http://www.sodor-island.net/



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今回の大震災ほど悲惨で、つらくて、苦しくて、胸が痛むものはない。
親や子や家族を亡くした方、家や職場や学校を失った方を見ると、涙が出てきて、
胸が締め付けられる。 いたたまれない気持ちになる。 被災地の方々には、
心から お悔やみとお見舞いを申し上げたい。

でも一方では映像を見る限りでは、多くの方々が落ち着いてインタビューに応じていて、
逆に励まされる。 本当によく頑張っておられる。 その強さに感服する。

日本中が、世界中が、被災地の方々のことを心配し、思っている。
人の思考は、口に出さないでも周囲に延長し、状況に必ず影響を及ぼす。
連日のニュースを見ても、先日のチャリティ・サッカーを見ても、
今ほど日本人の気持ちが〝善意〞でまとまっていることはないように感じる。
世界でも多くの人々が心配している。 わたしも 現地何箇所かに義援金を振り込ませてもらった。

今回被災された方々は、「幸福」とは到底思えない、過酷極まりない状況にいる。
すべてを失い、今は不幸のどん底だ、と思ってる方もおられるだろう。

でも必ず“幸福になる”と信じ、せめて気持ちだけでも“幸福でいよう”と思い、
カラ元気、カラ幸福でいいから、ぜひともポジティブ志向でいてほしい。
これからは上向きだけの一方通行だと信じていてほしい。そう、心から願っている。

(このブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございました)


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