「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 「人はパンだけで生きるのではない」は霊的食物の話ではない。 

「人の生くるはパンのみによるにあらず、
神の口より出づるすべての言による」

これはイエスが語った言葉で、非常によく知られている。(マタイ4:4 文語訳)
しかし、この聖句は非常に誤って解釈され、教えられている。

これは、人が生きるためには、体を養うパンも必要だが、
神の言葉の学びも必要である、という意味だろうか。 

そうなら、霊的食物を大事にしなさいということになり、
じつに当たり前の教えをイエスは述べたことになる。

これはイエスが悪魔サタンの質問に対して答えたものだが、
イエスは、そんな凡庸な答えを悪魔サタンに言ったのではない。

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両者のやりとりの根底には非常に重要な意味があったことを考えたい。

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悪魔サタンは何を誘惑し、イエスは何を答えたのか?

当時は、イエスが荒野で40日間の断食で飢えを感じていたときのこと、
敵対者サタンが現れて、次のように誘惑した。

マタイ4:3,4 「誘惑者が来て彼(イエス)にこう言った。
『 あなたが神の子であるなら、これらの石をパンになるよう命じなさい』。
しかし イエスは答えて言われた、
『人はパンだけによらず、
エホバの口から出るすべての言葉によって生きなければならない』
と書いてあります


イエスは、人はパンだけによらず、神の言葉(霊的食物)によっても
生きるべきで、ゆえに私は、石をパンに変えるよう命令しない
と答えたのだろうか。一般にはそう思われているのだが。

もしそうであれば、イエスは、霊的食物が大事だから奇跡は行なわない。
だからパンは別に大事じゃない、と言ってることになり、
仙人はカスミを食らって生きていると言ったことになる。
それでは質問と答えが全然かみ合ってない禅問答みたいだ。


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1.イエスが引用した聖句は、申命記8章3節。

時代背景を考えてみよう。イスラエルがエジプトを出て後、荒野にいた四十年目、
第十一月の一日。モーセは彼らに説教をした。

申命記8:8 「神はあなた方を謙遜にならせ、空腹にならせてマナを食べさせた。
こうして、人がパンだけによって生きるのではなく、エホバの口から出る
すべての言葉によって人は生きるのであるということを、
あなたに知らせたのである


神がイスラエルを空腹にならせてマナを食べさせた理由は17節に書かれている。
申命記8:17「あなた方が心の中で『私の力と私の手にみなぎる
偉力とによって、自分でこの富を得たのだ』などと言うことのないためである


※当時は、「マナ」というパンの材料が天から降ってきた。イスラエルの人々は
それを拾い集め、パンにして食べ、荒野で四十年間 生きることができた。

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イスラエルは、天からのマナを 自分の労力で得たゆえに日々生きられたわけ
ではない。そのマナは、神が、天から降れ!と口から言葉を発したので、
すなわち神のご命令(神のご意思)があったがゆえに天から降ってきたのだ。

創世記1章。
●神が「光が生じるように」と言葉を発すると → 「光があるようになり」、
●神が「地は草木を生え出させるようにと言葉を発すると
 → 「地は草木を出すようになり」、
●神が「生きて動く動物を種類に従って出すように」と言葉を発すると
 → 「するとそのようになった」と書かれている通りだ。

このように、神が「食物が地に生じるように」と、太陽や雨・空気・土壌・植物などに
言葉を発して命令したので、食用になる物が地に結実し、
その実を人はパンにして食べて生きることができているのだ(イザヤ55:10,11)。

☆すなわち人は「パン」を自分の力だけで得て生きているのではなく、
神のご命令があったことによって、すなわち「エホバの口から出る
すべての言葉によって」
生きている、ということだ。


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2.サタンが仕掛けた誘惑の意図と、イエスの答えの意味は?

サタンはイエスに「あなたが神の子であるなら」と言った。
サタンは、イエスが神の子であることを否定してはいない。
そうではなく、イエスが神の子であることを前提にして、
「神の子」ならば、その神的な威力を使って石をパンに変えるよう「命じ」、
自分の力だけによって生きたらどうか、
「神の子」として自立し、神から独立して生きたらどうか、と誘惑したのだ。

イエスがバプテスマを受けたとき、天から神の霊が下り、
「神の子として是認した」と声があった。
だからイエスは石をパンに変える力を持っていた(3:16,17.4:23参照)。

しかしイエスは、人は、ただパンによって生きているわけではなく、
《パンが天から降るように》と命じた神の言葉(=ご意思)があってこそ
生きていると認識していた。

☆だからイエスは、わたしは神のようになって、石がパンになれと命令する
意思はない、つまり 神から独立する意志はないとサタンに答えたのだ。


当時の書士やサドカイ人たちは聖書に通じていた。
イエスはサドカイ人と復活論議をするとき、「モーセでさえ、いばらの茂みに
関する記述の中で明らかにしました」と言い、聖書の記述に言及したことが
ある(ルカ20:37)。
ここは後に、章と節の番号が付けられて出エジプト記3:1-22となっているが、
サドカイ人は「いばらの茂みに関する記述」と聞いただけで、
その文脈全体の出来事を思い出すことができた。

サタンも申命記4章4節の文脈を知っている。
だからイエスは、その聖句を引用し、その文脈全体に言及することで、
わたしは神から独立する意志はないとサタンに分からせたのだ。

決して人は《パンと霊的食物で生きるべきだ》と、よくある説教のような
返事をしたのではない。両者の間には、互いの信念と生き方を賭けた、
火花が散るようなやりとりがあったのだ。


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3.最初の人間アダムも、サタンから同様の意図の誘惑を受けた。

エデンの園で、サタンである蛇は「神の子」アダムに対して、
禁じられた善悪の知識の木から食べたら「神のようになれる」と誘惑した。

創世記3:5「その木から食べる日には、あなた方の目が開け、
必ず神のようになって善悪を知るようになることを神は知っているのです


「食べたら神のようになれる」というのは、食べたら神的な力を持てる、
だから食べてその権威を自分のものにし、《神のようになってみよ》という誘惑だ。
言うなれば「石をパンに変えるよう命じなさい」と同じことを言ったのだ。

蛇は、食べても「あなた方は決して死ぬようなことはありません」と嘘を言った。
つまりサタンは、神から独立・自立して生きたら人生がもっと楽しくなるよ、
と人をそそのかしたのだ。
 ※3/13当ブログ「宇宙主権の論争は聖書的な教理か」参照

☆つまりサタンは、神の子アダムにしたのと同じ意図の誘惑を、
同じ神の子であるイエスにもしたのである。
 


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4.人類は、初めは神と共にあった。

人類が神と共にあった痕跡は、創世記やいろんな神話に残っている。
だが人は、歴史の初めより神から分離し、自分の力だけで生きること、
すなわち神から自主独立して生きることを選んできた。
人は自信過剰で、高慢で、思い上がり、神を忘れ、自分の力だけで
生きていけると思い違いをしている。その結果が今の世の中だ。

ある歌舞伎役者は会う人に、幾らもらってるの?とよく聞いたそうだ。
マスコミは、勝ち組・負け組とか経済効果としきりに言い、
ゴルフでは賞金王とか言って金額を話題にする。 多くの人はまさに、
金だけで、物質だけで、パンだけで生きていると思っているのではないか。



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ここからはJWの方々への話です。

もし無人島に本を1冊だけ持っていけるなら何を選ぶか、という話がある。
クリスチャンなら「聖書」だろうが、エホバの証人なら、
ほぼ間違いなく「ものみの塔」誌だろう。

エホバの証人信者は、かなり真面目に聖書研究をしている。
他の教会員より「霊的食物」の学びに多くの時間を費やしているかもしれない。

エホバの証人の「研究」とは、考えたり調べたりすることではない。
JWの「聖書研究」とは《下線を引く》ことである。研究記事にある質問の
「答え」を塔誌の節の中から探して、その文章に下線を引くことだ。

聖句を引く場合でも、大抵は何十回も引いて知っている毎度おなじみの
聖句ばかり。だから例えば啓示21章3,4節は丸暗記しているが、
その前後の1,2節や5節には何が書いてあるか知らない人が多い。
だが「正解」を探して本文に下線を引く単純作業を習慣にしていると、
その「答え」に至る論理やその「答え」自体の真偽を考えなくなる。
それは怖ろしいことではないか。

ものみの塔の教育方法は実に巧みだ。
同じことを繰り返し繰り返し教えるというのは、
マインドコントロールの基本であり、常套手段だ。
これでは、ものみの塔の統治体と教理が
JW信者から従順に信頼されるのも無理はない。

長老や奉仕の僕の兄弟たちの中には、
自分で考えたり調べたりしないことを自慢にする人もいる。
なぜなら、自分で調べ考えることは組織の教えを超えることになり、
それは不忠実で悪いことだと思っているからだ。

ものみの塔誌1983年4月15号:
「自分は組織よりもよく知っていると考え始める人はこう自問してみるべきです
『自分は最初に真理をどこで学んだだろうか。組織の導きがなかったとしたら
自分は真理の道を知っていただろうか。実際に神の組織の指導なくしてやって
いけるだろうか』。確かにやっていけません!」


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1世紀のベレア人は、極めて意欲的に聖書を調べた。

使徒17:11「ここの人たちは気持ちがおおらかであった。
極めて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、
それがその通りかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べた」


気持ちが「おおらか」だと人を疑ることをしないので、聖書を調べたりせず、
人の言葉を素直に受け入れるのか、というと、そうではない。

気持ちが「おおらか」だと、それが本当なら、もっと信じたい、
もっと自分の信仰を強めたいと思う。
そして、そう思うゆえに、聖書の文脈や背景も「注意深く調べ」、
心底納得できるようにするのだ。


※当ブログで「問題あり」としているのは、ものみの塔の組織『統治体』です。
エホバの証人の信者は皆、純粋な動機で入信しており、基本的に真面目です。


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