「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 神は人類を滅ぼさない。なぜそう言えるか? 

好きな聖書の言葉を ピックアップして、新春の初夢的な解釈をまとめてみた。

それは《神が人類を滅ぼすことはない》ということだ。
言い換えるなら、
 「世の終わり」は来ない、
 「ハルマゲドン」は来ない、
 「神の最後の裁き」を怖れないでいい、ということだ。

念のために補足しておくが、わたしは神とキリストを信じない者ではない。

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『放蕩息子のたとえ』から、神の真実の愛について考えたい
 ※当該聖句のルカ15章11ー32節は、このブログの最後に引用している。

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1.父親は、放蕩息子が“悔い改めた”ので、迎え入れたのではないか?
確かに放蕩息子は、自分は罪を犯したと思っている(18,21)。
しかし父親のほうは、息子に罪がある などとは全然思っていない。

それどころか息子が戻ってきたときに一番良い衣を着せ、ご馳走を作り、
失われていた息子が見つかったことを非常に喜んでいる(22-24)。
父親にとって息子はずーっと一番の《宝》であったのだ。

息子がしたことは、生前財産分与でもらったお金をただ使い果たしただけ。
愚かなことはしたが、別に罪を犯したわけではない。

この話の中には《ゆるし》に関わる言葉はいっさい出てこない。
「放蕩息子のたとえ」は「勘当息子のたとえ」ではない。決して見限られてはいないのだ。

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2.例え話のように、神は大いなる愛をもって人類を愛しているはずだ。
人間は、放蕩息子のように些細な過ちはしている。が、
人類のほとんどは凶悪殺人など、死刑になるような罪は犯してない。

であれば、神が極悪非道でもなんでもない普通の人間を「裁きの日」に滅ぼし尽くす
という教えは、物事の道理、人間の心情、そして何よりも「神の愛」に反してないか。

3千人が亡くなった「9.11同時多発テロ」を悲惨だと思う感情がありながら、
世界人口約69億人(ものみの塔の教えではJW信者だけ救われる)が殺される
とされる凄惨極まりない「ハルマゲドン」とその後の楽園を待ち望む という心情に
どうやったらなれるのか。

例え話の中で、もし息子が本心に立ち返らなかったらと仮定した場合。
父親は息子をゆるさず、予定の時に剣を持った討伐隊を送って息子を殺すであろうか。

この父親なら、イエスなら、そんなことは間違ってもしないだろう。
まり「放蕩息子のたとえ」からは、神が人類を滅ぼすことはあり得ないと断言できる。

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3.神は、愛と公正のバランスを取る必要があるのではないか。
愛と公正のバランスをとる必要があるという考え方の裏には、愛よりも公正のほうが
優先されるべきだ、という考えがある。これは正しい考え方だろうか。

公正と愛は対立する概念ではない。公正は、愛の側面の一つだ。
愛は、どんな人のあやまちでも慈悲で覆い、どんな人も公平に扱う。
これがすなわち愛と公正のバランスがとれているということだろう。

★たとえば役所に出す申請書類に少々不備があった場合---
・役所の担当者が、書き方が悪いとか手順が違うとか言って、
 申請は受け付けられませんと言うなら、「公正」を「愛」より優先している。
・しかし担当者が、少々不備があるが、折角来たので申請を認めましょうと
 融通をきかせてくれるなら、「愛」を「公正」より優先している。
  では、愛の神なら、人間以上に、公正より「愛」を優先するはずだろう。

憐れみは最優先されるべきことを聖書は支持している。
「憐れみは裁きに打ち勝って歓喜する(ヤコブ2:13)」
「神は憐れみを望み、犠牲を望まない(マタイ9:13)」。

聖書的に《愛の神が無辜の人類を滅ぼす』という教えには大きな矛盾がある。

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4.宗教組織が、神の「裁きの日」を熱心に教えてきたのはなぜか。

「怖れ」は人を動かす一番大きな要因だ。 たいていの人は幼少のとき、
ウソを言ったら閻魔様に舌を抜かれると親から脅されたことがあるだろう。

昔から、「地獄」「煉獄」「永遠の滅び」、あるいは「世の終わり」「ハルマゲドン」
が強調されてきた。 なぜ宗教は 神の恐ろしい「裁き」を熱心に教えてきたのか。

大きな理由は、信者に怖れを抱かせ、自分の組織につなぎとめておくためだ。

宗教組織は信者の支持や寄付がなければ成り立たない。どんな組織でも、
組織の一番の関心事は、組織自身の存続で、これは自己保存本能のようなものだ。

『1Q84』にはエホバの証人の教えが的確に書かれている
エルサレム賞を受賞した村上春樹の小説 『1Q84』 に、「証人会」という
宗教組織がかなり詳細に描写されている。「証人会」は「キリスト教の分派で、
末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する」。

そして、「教団に入ればその終末を生き延びることができる。そのあとには
至福の王国が訪れる」と宣伝する。「彼らは神の優しさを説いたが、
それに倍して神の怒りと不寛容を説いた」と書かれている。
その通りだ。 著者は、エホバの証人の組織をよく調べて的確に描写している。


人は自分の見たいものを見る。見たくないものは見ないし、見えない
たとえば、男と女が誰かの家の前を通ったとき。男は、玄関前に置いてある大型バイクに
目が行き、あれ、ハーレーかと思ったらヤマハだったと思うかもしれない。
しかし女は、家の外観や庭の植木に目が行くので、あら、バイクなんか置いてあったの
と言うかもしれない。

たとえ話の放蕩息子は過去を後悔し、「自分を雇い人の一人にしてほしい」と父に言った。
これは彼の内面の誠実さを示す。つまり愛ある父親は息子の「長所」を見た、
いや、息子が生まれたときからずーっと長所を見続けていたのだ。

たとえ話の兄は「わたしは何年も奴隷のように働き、父のおきてを一度も踏み越えたことが
なかった」と言った。これは彼が自分のなかでは義人であったことを示す。
すなわち、パリサイ人的な兄は弟の「欠点」のほうを見たのだ。

☆神が「裁きの日」に人類を滅ぼすと信じる人は、神の愛や憐れみより公正を
見過ぎているのかもしれない。神の完全な愛を過小評価しているのかもしれない。

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5.神は人類を滅ぼされない。無条件の愛の神は人類をひたすら愛すだけ。

「世の終わり」や「ハルマゲドン」「ゲヘナの滅び」を心配する必要はまったくない。
なぜなら、再三繰り返すが、「神は愛」であるからだ。「愛」が大量殺戮をするはずが
ないではないか。「愛」は人を愛し、人を救うからこそ、「愛」なのだ。

ローマ8:38,39 「死も、生も、み使いも、政府も、今あるものも、来たるべきものも、
力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物も、キリスト・イエスにおける神の愛から
わたしたちを引き離し得ないことを、わたしは確信している」


わたしが今、そしてあなたが今、ここで息をし、この瞬間、この人生を生きていられるのも、
神が「愛」をもってそう望まれたからだろう。 この幸せを神に感謝したい。
そして、あなたにも感謝したい。

※後記:「神が人類を滅ぼす」ことがあり得ないという点について、
今回は「放蕩息子のたとえ」の話だけに絞って論じた。これには、原罪、贖い、罪悪感、
信仰など、反論の聖句をいろいろあるかもしれない。 しかし新春の新解釈ということで、
この程度の論議でおさえておきたいと思う。


★参考:「宇宙主権の論争」の教理の誤りを論じています(本邦初)→ コチラ

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ルカ15章11ー32節
「ある人に二人の息子がありました。そして、そのうちの若いほうの者が父親に言いました、『父上、財産のうち私の頂く分を下さい』。そこで彼は自分の資産を二人に分けてやりました。その後、何日もたたないうちに、若いほうの息子はすべての物を取りまとめて遠い土地に旅行に出、そこで放蕩の生活をして自分の財産を乱費しました 」。11-13節

「すべての物を使い果たした時、その地方一帯にひどい飢饉が起こり、彼は困窮し始めました。 彼はその地方のある市民のもとに行って身を寄せることまでし、その人は、彼を自分の畑にやって豚を飼わせました。そして彼は、豚が食べているいなご豆のさやで腹を満たしたいとさえ思っていましたが、彼に何か与えようとする者はだれもいませんでした」。14-16節 


「本心に立ち返った時、彼は言いました、『父のところでは実に多くの雇い人にあり余るほどのパンがあるのに、私はここで飢饉のために死にそうなのだ。 立って 父のところに旅をし、こう言おう。「父上、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。私はもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。そこで彼は立って父親のもとに行きました。17-20節a

彼がまだ遠くにいる間に、父親は彼の姿を見て哀れに思い、走って行ってその首を抱き、優しく口づけしたのです。その時、息子は言いました、『父上、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。 私はもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください』。20b-21節 

しかし父親は自分の奴隷たちに言いました、『さあ早く、長い衣、その一番良いのを出して来てこれに着せ、その手に輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。それから、肥えさせた若い雄牛を連れて来て ほふるのだ。 食べて、楽しもうではないか。この私の息子が死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのが見つかったのだ』。こうして彼らは興じ始めました」。22-24節 


「上の息子は野にいました。そして、帰って来て家に近づくと、合奏と踊りの音が聞こえたのです。 そこで、僕の一人を呼び、これはどういうことなのか と尋ねました。僕は言いました、『あなたのご兄弟がおいでになったのです。それで、健やかに戻って来られたというので、あなたのお父様は肥えさせた若い雄牛を ほふられたのです』。 ところが彼は憤り、入って行こうとはしませんでした。25-28a節

すると父親が出て来て、彼に懇願しはじめました。彼は答えて父親に言いました、『私はこれまで何年というもの あなたのために奴隷のように働いてきて、一度といえあなたの掟を踏み越えたことはありません。それなのに、この私には、友人と一緒に楽しむための子山羊さえただの一度も下さったことがありません。それが、娼婦たちと一緒になってあなたの資産を食いつぶした、このあなたの息子が到着するや、あなたは肥えさせた若い雄牛を彼のためにほふったのです』。28b-30節

すると、父親は言いました、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいたし、私の物はみなあなたのものだ。 だが、私たちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は、死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったからだ』」。31-32節

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