「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い。

 「崇拝」は神聖であっても、愚かしく、危険である。 

世の中は、澄むと濁るで大違い。
「くうそう(空想)」 「くうぞう(食うぞう)」 「ぐうぞう(偶像)」の
各崇拝者の正しい在り方を示したがゆえに、自分に当てはめれば何かの役に立つ
と思うかもしれないが、どっこい、そうは問屋が卸さない小論文です。

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 聖書中で、神が殺した人間の数が見過ごされてないか? 

「目には目を、歯には歯を、命には命を」という有名な言葉がある。

これは刑罰は同等のもので償わせよ、すなわち誰かの目を損なったら目で賠償させよ、
歯を損なったら歯で賠償させよ、命を損なったら命で賠償させよ、という聖書の掟
(出エジプト記21:23-25、レビ記24:20、申命記19:21)である。
これはハンムラビ法典にも同様のものがある。

この掟では1人しか殺していないので死刑は不適当だという判決はあり得ない。
逆に、1人も殺してないのに死刑を執行されるということも基本的にない。

ところが、その掟を定めた神は、聖書中で200万人以上の人間を殺している。
詳細な数字は2,038,344人→参考 ※2,476,633人と計算した人もいる→参考

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 キリストの「贖い」は、なぜすべての人を救わないのか。 

「イエスを信じなさい、そうすれば救われる」
とはキリスト教の決まり文句である。Google検索では50万件以上ヒットした。

だが宗教心というものは、人が生まれついた土地や環境に深く根ざしている。
イスラム圏や北朝鮮に生まれた人が、キリスト教を信じることは極めて難しい。

こんな疑問を抱いたことがないだろうか。
 キリスト教徒でないと救われないのは、不公平ではないか?
 それはキリスト教会だけに都合のいい教えではないか?
 神は愛だと言うが、なぜ神はすべての人を救わないのか?
 
今回は、キリスト教の「贖(あがな)い」についての疑問と、そして、
ものみの塔は「救い」をどう教えているかを考えた。※基本的に聖書は新共同訳を引用

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Maurits Cornelis Escher

 男のエゴを暴いたスアドの『生きながら火に焼かれて』。 

娘殺しの「因習」に、モーセの「律法」との共通思考を見た。

中東のある村には、家族と家長の「名誉」を守るためには、
実の娘を処刑するという悲惨な慣習がある。

その村の「因習」を支えている忌まわしい「掟」の背景には、
旧約聖書の「律法」の背景にある倫理観と共通する思想があるように思われる。
それは、ひと言で言うなら、男のエゴ、特に「名誉心」である。

今回の話は、『生きながら火に焼かれて』という本から、
男の「名誉心」の害悪を、特にエホバの証人の階級組織に関連して考えたい。

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スアド著・松本百合子訳「生きながら火に焼かれて」

 旧約聖書の掟が非人間的である10の根拠。 

神は神に似せて人を創造し、人は人に似た神を想像した。
聖書では、エホバ神のイメージは、古いSPレコードのようだ。
神ならではの美しい聖なる音楽の中に、時々人間くさいノイズが混じっている。

当ブログでは「神の愛」を強調してきたつもりだが、
エホバ神には《人間の男くさい一面》があるように思える点がけっこうある。

今回は、神の属性を、旧約聖書の最初の5冊「モーセの五書」から考えた。

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※聖書は新共同訳を使ったが、YHWHが「主」と訳されている箇所は「エホバ」とした。

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