「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 「させていただく」視点で見えてくる『春琴抄』の幸福感。 

わたしバーソは、使わない言葉が幾つかある。
たとえば「何々させていただいています」と「何々しております」。
たまに軽い調子で使うことはあるが、改まった場での謙譲語としてはまず使わない。

こんな話がある。だいぶ以前だが、三井住友カードの会員向け情報誌『VISA』は、
「させていただきます」の言葉を、自社の宣伝ページ内では一切使わなかった。
ある顧客から、これは使い方がおかしいので使うな、と強く抗議されたからだ。

私が使わない理由は主に、謙遜を装おうとする偽善が気になるせい。
だが、「させていただく」は、適切な場面で適切に使うとぴしゃりと決まる言葉だ。

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―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「させていただく」の使用には、許可と恩恵の条件を満たすことが必要だ。

以前に拙記事で扱ったが、「させていただきます」というのは浄土真宗の教えで、
阿弥陀様のお陰で何々させていただきます、というのが元々の用法のようだ。

文化庁の文化審議会国語分科会の『敬語の指針』によると、
「させていただく」には、基本的に二つの条件を満たしていることが求められる。
すなわち、自分の行なうことが、
 (1) 相手または第三者から《許可》を受けていて
 (2) それにより《恩恵》を受ける事実や気持ちがある場合
であれば、よろしいそうだ。※

たとえばニュース番組で、芸能関係の若いタレントが「私は、交際させていただいて
おりました何々子さんと、婚約させていただくことになりましたので、発表させて
いただきます」と言うのは、お相手が皇族であれば条件にかなうかもしれない。

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―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
谷崎潤一郎『春琴抄』で、「させていただく」がうまく使われている。
丸谷才一が『桜もさよならも日本語』の中で、谷崎潤一郎の『春琴抄』に用例があり、
文中で一度だけ、ここぞという場面で使って文章を引き締めていると書いている。

[あらすじ]
富裕な商家に育った春琴は、9歳の時に失明。三味線の技量と美貌に抜きん出ている。
わがままで、意地が悪く、丁稚として仕えている4歳上の佐助に常につらく当たる。
20歳で三味線の師匠になるが、何者かの恨みを買い、夜、顔に熱湯を掛けられる。
春琴は、大火傷でただれた顔を見せることを嫌がり、佐助を近づけようとしない。
春琴を想う佐助は、自ら両眼を針で突き刺して失明させ、春琴のもとに行く。

佐助 痛くはなかったかと春琴が云った
いいえ 痛いことはござりませなんだ
お師匠様の大難に比べましたら これしきのことが何でござりましょう
あの晩 曲者が忍び入り 辛き目をおさせ申したのを知らずに
(ねむ)っておりましたのは 返す返すも私の不調法
毎夜お次の間に寝させて戴くのはこう云う時の用心でござりますのに
このような大事を惹き起し お師匠様を苦しめて
自分が無事でおりましては何としても心が済まず
罰が当ってくれたらよいと存じまして
なにとぞ わたくしにも災難をお授け下さりませ
こうしていては申訳の道が立ちませぬ と御霊様に祈願をかけ
朝夕 拝んでおりました効があって 有難や 望みが叶い
今朝 起きましたら この通り両眼が潰れておりました
定めし神様も 私の志を憐れみ
願いを聞き届けて下すったのでござりましょう 
         ・・・・・
佐助、それはほんとうか、
と春琴は一語を発し 長い間 黙然と沈思していた
佐助は この世に生れてから後にも先にも
この沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった 
         ・・・・・
今まで肉体の交渉はありながら 師弟の差別に隔てられていた
心と心とが始めてひしと抱き合い 一つに流れて行くのを感じた


※原文は句読点と改行がほとんど省略されているが、ここでは空白を入れ、改行した。

syu4.jpg

「寝させて戴く」の用法については、佐助は奉公人なので、主人からそうさせていただく
《許可》と、それによる《恩恵》を受けており、必要な二つの条件を満たしている。

しかしながら佐助は数年前、春琴と関係して赤子を生ませていて、事実上の夫婦だった。
なのに亭主気取りをすることもなく、一途に春琴に仕え続ける思いを抱いていることが
この「お次の間に寝させて戴く」という、へりくだった言い方によく表れている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
視点が違えば、考え方も変わる。佐助は盲目になっても幸せだった。

●佐助は、こんなことを回顧している。
「誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが
自分は盲目になってから そう云う感情を味わったことがない
むしろ反対に この世が極楽浄土にでもなったように思われ
お師匠様とただ二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした」

「眼が潰れると 眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくる」
・お師匠様(春琴)のお顔なぞも その美しさが沁々と見えてきた
・手足の柔かさ 肌のつやつやしさ お声の綺麗さも ほんとうによく分る
・お師匠様の三味線の妙音を 失明の後に初めて味到した
・お師匠様は斯道の天才であられると ようやくその真価が分かった
・自分の技倆の未熟さ…を悟らなかった…自分の愚かさが省みられた・・・

●そして、共に幸福を味わえたと言っている。
「されば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろう
お師匠様も 自分も 盲目なればこそ 眼あきの知らない幸福を味わえた」


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ネガティブに思える状況も、視点を変えればポジティブな面が表れてくる。
佐助は眼が見えなくなってから、心の目がよりはっきりと見えるようになった。

「させていただく」気持ちとは、受けている恩恵や恩寵をありがたく思う気持ちだろう。
その恩恵や恩寵は、よく考えれば、じつはいろいろと沢山いただいているのだ。


補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※「させていただく」の用例
①「コピーを取らせていただけますか」⇒(a)の許可と(b)の恩恵の条件を満たしている。○
②「(研究会で)発表させていただきます」⇒(a)の許可条件を満たしてない場合は冗長。△
③「本日、休業させていただきます」⇒(a)の条件を満たしていれば適切かもしれない。△
④「私は新郎と3年間同じクラスで勉強させていただいた者です」⇒結婚式が新郎や
新婦を最大限に立てるべき場面であることを考え合わせれば許容されるかもしれない。△
⑤「私は○○高校を卒業させていただきました」⇒卒業するのが困難だったが学校側の
格別な配慮によって卒業させていただきましたという場合なら不適切とは言えない。△

(a)と(b)の条件を実際には満たしていなくても、満たしているかのように見立てて使う
用法があり、それが「何々(さ)せていただく」の使用域を広げていて、上記の②~⑤に
ついても、そのような用法の具体例としてとらえることもできるそうだ。
                  
画像:映画『春琴抄』ビデオプランニング配給 2008年・金田敬(監督)、斎藤工、長澤奈映
青空文庫『春琴抄』http://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html
谷崎自身による朗読http://www.asahi.com/articles/ASJ3K42SWJ3KUCVL00R.html
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

マスコミが報道しないニュース わずか2日間の伊勢志摩サミット開催のために、国際メディアセンター建設に29億円を掛け、取り壊しに3億、報道陣へのお土産に1億2千万も掛けた。「政府の歳出引き締めのタガがずるずる緩んでいる(森永卓郎)」。

※「I LOVE JAPAN blog アイラブジャパンブログ」→ブログより


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(y^ω^)y言葉。

(y^ω^)y おはようございます~☆

(y-ω-)y 言葉は、なにも考えないで使うと誤解を生みやすいものですね、深く学ぶことで、自分の無知さを知ることが出来ます。それによって謙虚さを学ぶことは、素晴らしいことだと思うのです。その意味でも、素敵な記事でした~☆

(y-ω-)y へ~~流石の一言でございます。勉強になります。

2016/06/04(土) |URL| 匠石 戒丘 [edit]

奇想天外な視点

盲目になった佐助の視点、素晴らしいですね。
それも意図的に障害を背負ったとなると、
その精神の気高さに圧倒されてしまいます。
誰も成しえない究極の愛ですねぇ。(´;ω;‘)ウッ… 

視点を変える……。
私もよくやりました。

例えば飛行機に乗って上空から山々を見下ろし、
命をかけてエベレストに登頂している人をイメージ。
すると‥‥◎ー◎;)
登山家は大地を徘徊する蟻に等しい。
なんだって大地を這いずり回っているわけ?
なんて思えるわけです。

何もないように見える空気中に漂う水の分子……。
雲ができる瞬間や、それが消える瞬間を観察し、
水の分子たちの変幻自在な性質に思いを馳せると、
(液体、水蒸気、固体と姿を変える)
思い込み(固定観念)が溶けていきます。

すると、人の観方や接触方法も変わります。
佐助のような気高さは無理としても、
目が見える幸せ、歩ける幸せ、生命や自然界の
素晴らしさに気づけるんですよねぇ。

それにしても、
『目あきの知らない幸せを味わえた』とは、
まさに意識のパラドックス。(´ー`*)ウンウン

生きている間に‥‥、
それらの世界にアンテナを張り巡らせたいものです。

2016/06/04(土) |URL|風子 [edit]

考えてもいませんでした

バーソ様
おはよう御座います。

させて戴くは考えもせず、普通に使っていました。
なるほど条件があるのですね。
おかしな言葉の使い方として
「〇〇していただけますか?」
というのがあります。
例えば病院の受付で、ここに並んでいただけますか?
といいます。これはここに並んで下さいというのが正しいのですが、
より丁寧だと思って使っているようです。
一度「嫌です並びません」と言ってみたいです。
相手は疑問形で言っているのですから否定してもいい筈です。

愛新覚羅

2016/06/04(土) |URL|aishinkakura [edit]

『春琴抄』って、
なんでそうなるかなぁ、
って話ですよね。

美しく描かれる小さな幸福は、
物語を支配する大きな不幸に、
とても見合うようには思えないのに、
そのささやかさゆえの結晶作用があります。

読み手は、そのきらきら輝く結晶に、
真なるもの、善なるもの、美なるものを、
見つけようとしますが、
僕は、なんか変だな、って感じを大切にしたいです。

どMと自己中の共依存かもなぁ、
なんて思うから、僕には文学の素養がないわぁw。

2016/06/04(土) |URL|青梗菜 [edit]

Re: (y^ω^)y言葉。

匠石 戒丘さん コメントありがとうございます^^)
> 言葉は、なにも考えないで使うと誤解を生みやすいものですね
 そうですね。こちらとしては悪い意図など全然ないのに、ちょっとした言葉に敏感に反応して悪意と採る人もいますから。
 こちらとしては、すぐ、そういう意味で言ったのじゃないと弁解できればいいのですが、その機会がない場合もあります。ブログの文章でもコメントでも、どうしても言葉足らずのことがあるので、基本的に物事はあまり悪く解釈しないほうがよさそうです。

 「させていただく」は大抵の場合、謙譲語だと思っている人が多いので、誤用だと思ってもあまり気にしないほうがいいのでしょうが、私の場合は、それを自らの謙遜さを表す道具として意図的に多用されるのが気になります。用法が気になるというよりも、その意識がかなり好きじゃないので、こういう記事を書きましたが、「それによって謙虚さを学ぶことは、素晴らしいことだと思うのです」という意識は素晴らしいと思いました。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 奇想天外な視点

風子さん コメントありがとうございます^^)
> それも意図的に障害を背負ったとなると、
その精神の気高さに圧倒されてしまいます。

 そうですね。ここまで愛する人に仕えたいという献身的な精神があると、すごいと言うしかありません。
 Wikipediaには「春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語の中で、マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描く」とありましたが、佐助にはマゾの要素もあると感じる人もいるでしょう。献身的とは徹底すると自虐とさえ思えるほどの精神なのでしょうか。

> 視点を変える……。
私もよくやりました。

 なるほど、身の回りのことでいろいろイメージして、視点を変えるのですね。
 旧約聖書に、ダビデが書いたこんな詩があります。
 「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心を留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」
 宇宙の壮大さを思うと、創造者なる神の偉大さを思い、そうすると人間の弱小さに気づき、そんな小さな人間に心を留める神の愛の広さに驚嘆して感謝の念を抱いたということですが、「イメージ」するとは視点を広げていくということなのでしょうか。それが「固定観念が溶けていく」ということでしょうかね。

> 『目あきの知らない幸せを味わえた』とは、
まさに意識のパラドックス。(´ー`*)ウンウン

 まったくそう思います。ここ、この書の中で一番いいところですね。私は、広角波長性能の優れたアンテナがほしいですよ。(^_-)

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

青梗菜さん コメントありがとうございます^^)
> 美しく描かれる小さな幸福は、
物語を支配する大きな不幸に、
とても見合うようには思えないのに、
そのささやかさゆえの結晶作用があります。

読み手は、そのきらきら輝く結晶に、
真なるもの、善なるもの、美なるものを、
見つけようとしますが、
僕は、なんか変だな、って感じを大切にしたいです。

 そうですか。青梗菜さんらしいですね。それでいいのじゃないですか。小説に関して「百の読み手が夢想する百の幻視に 正誤は無い」と書いている人もいる通り、感覚や思考が人間みんな同一になれば気持ち悪いことですから。
 ひととは違う「感じを大切にしたい」と思うのはいいことなのでしょう。ただ、そう思わない人をメインの対象にして、この書は書かれているのでしょう。
 
 私の「感じ」は、「小さな幸福」でも「大きな不幸」に優る場合があり、それは視点を変えるとそうなり得るということを作者は言いたいのだろうと思いますし、それは障害や問題を抱えている人にひとつの大きな助けになる良い考えだろうと思いますね。
 
 こんな話があります。インドだったかのある若い修道僧かが、寺院では性的欲望を禁じられているなら、その欲望を抑えるのが大変だろうという質問を白人見学者からされたとき、瞑想しているときの至福感に比べれば、そんなことはどうってことないと答えて、みんなを驚かせたのだそうです。

 視点を変えるというのは青梗菜さんの得意にしていることのようですが、視点を変えると、より幸福感を味わえるようになるというのもすごいことで、人間の意識とは面白いものですね。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

『春琴抄』のなかからよくぞ「いただく」を発見しました。
さすが言葉や言い回しにもお強いバーソさんです。
名前は忘れてしまいましたが、公的なものを私的に
いただいていた某知事が定例会見で「いただく」を連発
していました。
「厳しい第三者の目でみていただく」、「精査していただく」・・・
違和感ありまくりの「いただく」でした。相手または第三者から
《許可》を受けてないし、《恩恵》を受ける事実があっても気持ちが
ないですから。なんでもいただきっぱなしの方ですな。
映画『春琴抄』は、ちとついていけないですが映画『細雪1983』は
私の邦画のオールタイム・ベストワンです。

2016/06/04(土) |URL|エリアンダー [edit]

バーソさん、こんにちは^^

『春琴抄』は読んだことがありませんが、
なんとなく、私好みの耽美的な雰囲気を感じます。

佐助の春琴に対する思いと献身は、
神への信仰に近いものがありますね。

愛のある行為は、本人からすれば自然なものでも、
愛の無い人から見ると、利害損得の観点から、
愚かな自己犠牲的行為と映ったり、
または、自己犠牲に対する恐れから、
悪魔的行為と映る場合も多いようですね。

佐助にとっては、
崇拝に近い思いを抱く相手と思いが通じることよりも、
幸福なことは無かったでしょうし、
目の見えない春琴にとっても、
目が見えないことで、自己否定的な思いがあったはずですが、
自分と同じ境遇に落ちてまで貫こうとした、
疑いようの無い、自分への愛によって、
救われたのではないでしょうか?

2016/06/04(土) |URL|Korva [edit]

Re: タイトルなし

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> 『春琴抄』のなかからよくぞ「いただく」を発見しました。
 よくぞ言ってくださいました、と言いたいところですが、残念ながら違うのですよ。文中にも書きましたが、私の好きな丸谷才一さんの本に書いてあるのです。それで青空文庫で確認して、軽くまとめたにすぎません。丸谷才一と井上ひさしは、小説類を読まない私としては割合よく読んでいるほうですが、今回は、この『春琴抄』の「させていただく」の話から、いつものようにちょっぴり精神世界のほうに話を持っていきました。

 「させていただく」の使用は、政治家の常套句でしょうか。なにしろ言葉の使い方が悪く、言葉は信用できない人が多いですから。
 「第三者」というのも、なにしろ某知事自身が任命した弁護士で、しかもその分野に強い元検事らしいので、雇い主に都合のいいように調査発表をするのは当然のこと。第三者どころか、第一者の強力な代理人です。大体「精査」なんかしないでも、秘書だか会計係だかと本人がすべて承知し把握しているはずです。このたびは多額な金を払って何とか法律の抜け道を探してもらっているのでしょう。
 それにマスコミが言う「公私混同」は甘すぎます。「公金横領」と言うべきです。「そんな奴は牢屋に入ってもらう」とは本人が大臣の時に言ってましたが。

 映画の『春琴抄』。山口百恵と三浦友和の映画が有名らしいのですが、そもそも顔のイメージが本とはまるで違います。挿絵として勝手に使わせていただいた(おっと、させていただくを使ってしまいましたが)斎藤工、長澤奈映も印象が軽すぎるのですが、ぴたりのYou-Tubeの画像が見つからなかったのです。特に佐助役には、苦労人感と内面の屈折感のようなものが出ない人だと適役でないような気がします。
 『細雪1983』はエリアンダーさんからそう言われ、Wikipediaを読んだら観てみたくなりました。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

Korvaさん コメントありがとうございます^^)
> 佐助の春琴に対する思いと献身は、
神への信仰に近いものがありますね。

 なるほど、確かにそういう感じがありますね。愛や自己犠牲とは、損得利害の観点から見れば滑稽に見える行為でしょうから。
 物事は物的に見るか霊的に見るかの違いで、世の中の価値観はずいぶん変わってきます。特に「自己犠牲」は、第三者から見れば、認知されにくく、愚かしいと思えることが少なくないのでしょう。そしてまた逆に、自己犠牲の思いで自己陶酔してしまって、他者に被害を与えてしまう行為に走ることもあるのでしょう。過激な革命家や自爆テロリストなんかがそうです。

> 佐助にとっては、
崇拝に近い思いを抱く相手と思いが通じることよりも、
幸福なことは無かったでしょうし、

 そうですね。佐助は大体が身分が違う人間でしたので、傍にいるだけでうれしかったのでしょうか。

> 目の見えない春琴にとっても、
目が見えないことで、自己否定的な思いがあったはずですが、
自分と同じ境遇に落ちてまで貫こうとした、
疑いようの無い、自分への愛によって、
救われたのではないでしょうか?

 春琴は美貌と才能があったゆえに、それを改善できるようにするために天は盲目を与え、それゆえに長い目で見れば良い人生経験をしたとも言えます。盲目ゆえに佐助の顔を見ることができず、またそれゆえに、自分を盲目になってまで愛してくれる佐助と長い付き合いになれたということもあったのでしょう。人間は地球に生まれてきて、みな何らかの学びをしているのでしょうね。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 考えてもいませんでした

aishinkakuraさん コメントありがとうございます^^)
(書いて投稿したつもりでしたが、コメント数が奇数だったので精査したところ、肝心な方への返信が入ってなかったことに気付いたので、大変遅くなりましたが、ここに入れますね。どうもすみません)

> 「〇〇していただけますか?」
 ひとに何かを頼みたいときの言葉遣いって難しいですね。命令的にならず、謙遜さを表したいとなると、「させていただく」という言い方が一般に浸透していて、使いやすいのでしょうか。
 
 何かを人に依頼したいときの言い方に、こんな例があります。
 「何々することができるでしょう」。何々できるでしょうと言われれば、できないこともあるでしょうの意味を半分含んでいる曖昧な指示だと思ってしまいますが、実際は命令文であって、何々してくださいと言うと命令形を避けるために、こういう漠然とした言い方をしているのです。揚げ足を取られないようにしていて、ちょっとずるい言い方です。

 「何々していただければ、うれしく思います」。これは殿様が臣下に言う「余はうれしく思うぞよ」の現代形で、これも命令形を避けるための言い方ですが、聞いているほうは、あなたを喜ばせるためにするのか、そんなことはしたくないという反発心が生じます。謙遜なようで、実際はかなり尊大に聞こえます。

 以上ふたつは私が長年見聞きした例で、かなり偽善的な意識が入っていて気持ち悪いのですが、使っている当人は、この言い方を謙譲語だと思って、そう言い方ができることを喜び、得意になっています。謙譲語とはなかなか使用が難しいですね。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

事後承諾で

「いただきます!」パクッ
 食べ物を食べると言う事は命を食べると言う事です。神様に許可を受けまして、感謝の気持ちを忘れずに。
 え゛?ダメ?おあずけ?聞こえない聞こえない。万難を排してでも食べるんだ。食べなきゃ死んぢまうやないかー。
(あなたが許可しようがしまいがこちらは勝手に)させていただきます。
(一応否定しても良い建前だけど)していただけますか(勿論しないよね)。
 イメージなんでしょうかね。「いただく」と言うのは有無を言わせない迫力があるのですな。「します」「いたします」より「させていただく」の方が強いんですよ。と思ったら元々許可するのは阿弥陀仏だったのか。強い訳だ。つまり、あんたより上の許可貰ってるからねーって事なんですな。これじゃ嫌だ何だと言っても通じませんなぁ。でも道理が通じない相手には良いかも知らん。
 でも何ですな、佐助さん、しっかりする事はしとったのね。

2016/06/04(土) |URL|miss.key [edit]

Re: 事後承諾で

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
> 食べ物を食べると言う事は命を食べると言う事です。
 そうですね。昭和の後期からそういう解釈があったようですよ。「御仏と皆様のお陰により~」と感謝の気持ちを表す言葉で、元は浄土真宗の教えだとも言われているようですが、神や仏を排除したい合理主義者の考え方のようにも思えますね。

> 神様に許可を受けまして、感謝の気持ちを忘れずに。
 「頂く」というのは頭のてっぺんに乗せるから来ているのでしょうから、元来は食事をもらえることをありがたいと感謝していることを示す原始宗教的な所作だったのじゃないですかね。
 キリスト教徒は、自分で稼いだ金で買った食材でも、「いただきます」とは言わないですが、食事の前には神への感謝を捧げます。面白いのは、他所のお宅でご馳走になるときでも、まず第一に神への感謝を長々としますね。

> 「いただく」と言うのは有無を言わせない迫力があるのですな。
 そうですね。たとえば会社を辞めたいときに、「今月末をもって退職させていただきます」などと上司に言うのは、たとえ会社が自分を引き留めても退職するのだッと冷ややかに宣言しているようなものです。確かに、ちょっと慇懃無礼的な強引さがあるように感じますね。
 
 小説の中では、春琴十七歳、佐助二十一歳のときに「春琴の体にただならぬ様子が見える」と書かれているので、まあ、早熟だったと言うべきか、あるいは当時は当たり前の年齢だったのでしょうか。
 生まれた赤子は、春琴が、佐助の子だとは認めず、かえって足手まといだと言うので、すぐ里子に出されています。なので愛情とはあまり関係なかったような気もします。

2016/06/04(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/06/04(土) || [edit]

Re: タイトルなし

sさん コメントありがとうございます^^)
 私が他の方に、このたびのコメントの返事を書く際にも、つい「させていただく」の言い方が出てきました。自分では気づかずに、けっこう使っていることがありそうです。
 私が「まず使わない」と書いたのは、上の身分の者がいる公の場で、自分を謙遜そうに見せかけるためにやたら使うのは偽善的で気持ち悪いというのが主眼ですから、そのような意図がなく、やたら多用しないのであればいいのではないかと思います。

> 百恵ちゃんの映画は観ました・・・映像の美しさに惹かれ、その心に芸術を感じたほどでした。
 そうですか。評判のいい映画だったようですね。
 一般に映画は小説とはかなりイメージが違う場合がありますね。そもそも狙いや結末が全然違う場合もあります。この『春琴抄』の小説は、いろいろな見方があるのでしょう。純粋な愛だと思う見方があれば、愚かしいとか官能美だとかマゾだとかという見方もあるようです。

 私はこう感じました。春琴は雇用者側で美人で才能があるという非常に恵まれた状況にあったが、盲目で非常にわがままだという弱点があった。一方、佐助は奉公人の身分で、顔も二枚目でなかったかもしれないが、春琴を助けられるおそらく唯一の立場にあった。そういうこともあり、なんとか春琴の愛を得たいがために針を自分の目に突き刺したということもありそうだ。
 むろん佐助が盲目になったことを春琴に説明するシーンのセリフを見ると、ひたすら利他的な愛がメインにあるように感じるが、しかし、そこまでして自分に愛を得たいという自己愛も若干あるのではないか。

 ネットを検索するとマゾと評する人がいるようです。世の中には自己犠牲とは損をすることだと思う人がいて、佐助の自己犠牲的な精神に共感できない人がマゾだと感じたのではないかなとも思います。
 作者は小説の最後に和尚を登場させて感想を言わせています。「醜を美に回した禅機を賞し」とあるので、やはり視点を変えれば醜も美に変わり得るということが主眼であったと私は思います。人間は自分を基準にして思考しますからね。mさんが映画の映像美に魅了されたというのも、よく分かるような気がします。
 マゾのフルネームをよくご存じですね。私はマゾは伯爵だったことしか知らないですよ。

追伸。すみません。sさんのお名前を間違えてmさんと書いてしまったので、訂正します。

2016/06/05(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

忘れものです<(_ _)>
リンクに加えていただき感謝です。ヽ(*´v`*)

「させていただく」視点で見えてくる『春琴抄』の記事で、バーソさんのコメント返しを読んでいて……。
(インドの若い修行僧の答え)

恥ずかしくて躊躇していた記事を、思い切ってUPしました。

2016/06/05(日) |URL|風子 [edit]

Re: タイトルなし

風子さん コメントありがとうございます^^)
 あらー。コメント返しまで読んでいただき、恐縮です。うかつなことは書けませんね~。嘘は書いていませんが。
 あ、ひょっとしたらインドの僧じゃなく、チベットの僧だったかもしれません。大体あの辺の話です。
 仏教はすっかり堕落していますが、あの辺の山奥のほうには精神性の高い人がいるようですね。私もそういう状態が望みですが、ただ毛布一枚で、風呂も入らないで、パソコンも無しで暮らそうという気にはなれません。まだまだかなり俗物のようです。そちらには感想文を入れましたよ。

2016/06/05(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/06/06(月) || [edit]

Re: タイトルなし

mさん コメントありがとうございます^^)
 またまた真摯に考えてくださったコメントで、ありがたいことです。

> 献身と言う事を考えた時 ・・・
もし望まれての事ならば
そこには安らぎの時が流れているような気がします

 献身。神に対する献身の場合は、満足感がありますね。神に喜ばれることをしているのがとてもうれしいと思うからです。
 何の得にもならないことをしているとか、おかしなことをしているとか言われますが、心の中には「やすらぎの時が流れて」います。

 誰かから望まれていると思えば、その人を敬愛しているのであれば、人に対しても献身したいと思うでしょうね。やすらぎや満足感、充実感が確かにありそうです。

> いつの間に深まってしまった憧れや慕う心が
自然と敬う心を生み「させていただく」と
表現してしまう事もあるかと思います

 「させて戴く」というのは確かに「いつの間に深まってしまった憧れや慕う心が、自然と敬う心を生み」出しているのでしょう。この言葉がそういう場面で使われると、かなり美しい言葉に聞こえます。
 私は長年、世間的に見れば大変廉直な教団に属していながら、じつは謙遜を装っている場面を見聞きすることが時々あったので、この言葉を聞くとすぐ偽善を感じてしまうのかもしれません。
 そして私がこの謙遜そうな言葉に偽善を感じることがあるというのは、私の中にも同じような特質が秘められているのだろうと思います。だから他者の問題点に反応するとは、じつは自分の心の中にある欠点に敏感に反応しているのかもしれません。男は優越感を持ちたいという精神が非常に強い動物ですからね。

 昨日、新聞サイトを見ていたら、外国の経済学者の論説が出ていました。政治家がいわゆる公私混同をして不正なカネを得ているのは(カネに汚いとかセコいという話もあるでしょうが)精神的に分析すると、彼らは特権という既得権を利用して他の人ができないようなことをすることで、優越感を見せびらかすためにそうしているのだそうです。

> 当事者たちはそんなことを考えもせず
求める中にも求められる中にも喜びを感じ
春琴も佐助も ただ夢中で小さな幸せを
味わっていたのではないかと思うのです

 なるほど、そうですか。そうですね。ここらあたりは読む人の心や感性がそのまま出てくるのでしょう。心の中で純粋に愛を追い求めているようなひとは、そのように感じるのでしょう。福音書の山上の垂訓にある「憐み深い人は幸いなり」を思い出しました。ひとの愛を見て愛をそのまま素直に感じる人は幸いだと思います。

 ところで私の声は何色か考えました。あまり美しい声ではないです。ちょっと弱々しそうな声かもしれません。大声を出すほうじゃないのです。自信がないせいかもしれません。(^_-)

2016/06/06(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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Re: タイトルなし

おふたりの鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 そちらのほうに直接お返事を入れました。
(^^♪
 

2016/06/06(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/06/06(月) || [edit]

Re: タイトルなし

sさん コメントありがとうございます^^)
 あー、わざわざありがとうございます。
 私も、いい歌はすぐ脳内に固着して数時間はリフレインするほうです。
 そちらのほうにショッピングモールの「イオン」はあるかどうか知りませんが、たまに行くと食料品売り場では、女の子がかわいい声で歌っているイオンの宣伝ソングが流れていることがあって、それがかなりいい調子のメロディなので、帰りの車の中でも頭の中で鳴り続けています。
 ひとつは「たらこ」の歌です。もうひとつは「イオン」の歌だったような気がしますが。(^^♪

2016/06/06(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「させていただく」よりも、『春琴抄』の佐助のあり方はどうなのだろう?
と考えてしまいましたw

野坂昭如の小説に『垂乳根心中』というのが、あったと思いますが、あれは、
癌で死んだ母親の内臓を食べて、自分も癌になろうとする…というラストだったと記憶してます。
これを美しい究極の親孝行とみるか…。いや、これはイカれてると思うのですw これは究極の母親依存の姿とも言えるのです。

愛するものと同じ状態になろうとすることは、美しいのかなあ。同じ状態にならなければ相手の心は分からないのかなあ。いや、同じ状態になったって他人の心は分からないと思う。

春琴抄を青空文庫で読んできたのですが…
佐助は自分の頭の中にある春琴を相手にしていて、素晴らしい音曲を奏でる美しい春琴というイメージに対する憧憬が強く、現実の春琴を避けている…とも感じます。そういう描写が随所にありますね。

自分の中にある春琴のイメージが壊れることを何よりも怖れたことが、佐助が自らの目を突いた根本的な原因ではないかと。
これは耽美ではありますが、現在日本の俗っぽい所に置き換えると「老年になってから初恋の人に再開するのは避けた方が良い」みたいなことだと思いました。

『首肯せらるるや否や』と問われれば何とも微妙な気持ちになりますねw
佐助は身体改造に高めのモチベーションを持っていた人なのではないかなあ。
音曲という芸術に魅せられて、そこに盲目という象徴が附随した。佐助は春琴に出会った頃から盲目になりたかったのではないかなあ。

佐助が、本当に愛していたのは「素晴らしい音曲を奏でる盲目という種族」だと思いました。

2016/06/10(金) |URL|小奈鳩ユウ [edit]

こんにちは

昔、読んだ時は理解できませんでした。

あれ以来、手にして読んだことはありません。

佐助の気持ちが、まだわかりません。
きっと到達することなのでしょうね。

私は今なら尼さんになりたいな。

私と同じ仕事を20年ちかくしている先輩が
山にぶつかるけど
そのうち、その山を越えてみると
今までにない未知の世界が広がるよと
言うのです。

そういうものかなあと考えています。

2016/06/10(金) |URL|森須もりん [edit]

Re: タイトルなし

小奈鳩ユウさん コメントありがとうございます^^)
 ブログのコメントというより、書評のようですね。さすがです。
> 素晴らしい音曲を奏でる美しい春琴というイメージに対する憧憬が強く、現実の春琴を避けている…とも感じます。
 そういう感じ、しますね。そこが佐助のエロースの特殊性でしょうか。アガペーとはあまり感じません。佐助の愛は、裏返せば自己愛の表れのようでもあります。
 私の初恋のひとは2歳上だったので、今でも2歳上のはず。年取った顔は、確かに想像したくもないですよw。

> 佐助は春琴に出会った頃から盲目になりたかったのではないかなあ。
 なるほど、そうかもしれません。こんな文章がありました。
 「眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難を嘗めようとし、盲人の不自由な境涯を出来るだけ体験しようとして 時には盲人を羨むかのごとくであった彼が後年ほんとうの盲人になったのは 実に少年時代からのそういう心がけが影響しているので、思えば偶然でないのである」
 佐助には、佐助自身が気づいている意識と気づいていない潜在意識とがあり、洞察力の鋭い読者はその両方に気付くのでしょう。

 精神世界では、人間の意識が自分のまわりの世界の事象をつくっていると言います。佐助の心に強く秘められていた春琴への熱い想いが強いエネルギーとなって周囲に影響を与え、それがいろいろな状況を形作り、佐助の特異な運命をつくっていった。というより、そもそも最初からそのような運命を歩むべく、佐助と春琴は生まれてきたように感じます。
 とすれば、その二人は何を学んだのか。うーむ、これはちょっと難しい。普通に考えれば、盲目者というジャンルの、耽美的な、そして自虐的とさえ言えるほどの男女の愛の一つのパターンを学ぶためだったというのがありそうですが、視点を変えれば他にもありそうです。

> 佐助が、本当に愛していたのは「素晴らしい音曲を奏でる盲目という種族」だと思いました。
 おお、そうですか。「種族」ですか。《音曲》という、常人とは違う切り口で見た、小奈鳩さんらしい鋭いまとめですね~。私には思いつかなかったですよ。
 言われてみれば、この書では「盲目」がずいぶん強調されています。「盲目」で検索をかけたら36箇所もありました。盲目が怪しげで特殊のように言われ、たとえば「盲人に特有な意地悪さも加わって」とか「不具者の常として片意地な人が多く」と、今なら禁止用語とされるような悪意を感じるような文章も何箇所かに出てきます。盲目のひとが視ている世界は聴覚の世界なんでしょうかね。
 
 私の感想を言わせていただければ、この書は『走れメロス』と似てますね。共に、ちょっと変わった性格・思考を持つ人が主人公で、行為が美しいとか立派だと描写されているようだが、メロスのほうは友人愛と責任感より愚かさのほうが目につき、佐助のほうは自己犠牲的な愛より奇妙な考え方のほうが気になる。読んでいると、共感できないなあと思う部分が多い書です。ただ、この書は『走れメロス』よりは拒否感が少ないですが。

2016/06/10(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こんにちは

森須もりんさん コメントありがとうございます^^)
> 佐助の気持ちが、まだわかりません。
きっと到達することなのでしょうね。

 佐助の気持ちがわかる人って、そんなにはいないのではないでしょうか。自己犠牲的な愛と採るか、利己的な偏執愛と採るかでも、この書に対する感想は違ってきます。物事にはスパッと一刀両断できない部分があり、ジキルとハイドは、その大小はあるでしょうが、誰の中にも住んでいるのだろうに思いますね。

> 山にぶつかるけど
そのうち、その山を越えてみると
今までにない未知の世界が広がるよと
言うのです。

 そうでしょうね。よく、山あり谷ありと言います。山の次は谷、谷の次は山があるのでしょう。山の頂上に行けば景色がすうーっと広がるのでしょう。そして深い谷底だと思っていたら、人間万事塞翁が馬と言われる通り、じつはその底においしい浄水が流れていたということもあるでしょうし。

> 私は今なら尼さんになりたいな。
 そうですか。どうなんでしょうね。一切の欲望を捨てて別境地になれればいいでしょうが、化粧っ気の全然ない女性というのも、どうでしょうね。森須さんには生活の中でおしゃれをいつまでも楽しむ人であってほしいと思いますよ。 

2016/06/10(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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